初級翻訳・円太郎馬車 第3話

円太郎馬車

あの娘が持っているもの一つ一つが、みんな血の通った親しさや懐かしさのように感じられたのです。でも、あの娘が俺みたいなドジで間抜けな野郎に惚れてくれるはずがない。そう考えると、急に日が暮れたように寂しくなりました。

「仕方がないや。高座は一人前以上でも、普段の生活ときたらだらしない俺だもの」
夜中の町を駆け出しながら、彼は心の中で泣いていました。

***

浅草代地河岸にある三遊亭圓朝の家。
「梅咲くや 財布のうちも 無一物」
禅味のある一流の字で書かれた山岡鉄舟先生の半折(はんせつ)をお手本にして、三遊亭圓朝は手習いをしていました。ツルリと抜け上がった額を撫でながら、圓朝は「梅咲くや」「梅咲くや」と何度も何度も書いては消し、書いては消していました。その前にかしこまって座り、圓太郎はまだ用件も聞かされないままになっていました。
ギイ……ギイ……ギイ……と、隅田川を滑っていく船の櫓(ろ)を漕ぐ音が聞こえてきます。師走の朝の光に濡れた障子には、川を行く帆の影が大きく、のどかに揺れていました。
その帆影をぼんやり眺めながら、今日はどうしてお八重ちゃんがいないんだろう、と圓太郎は考えていました。
でも、朝早くからいったいどこへ出かけていったのでしょう。
「あの……お前、昨日ねえ」
その時でした。
むくりと圓朝が顔を上げました。
そして、そう話しかけました。
「……へ、へい」
不意を突かれて、圓太郎はドキマギしました。
「いや、あの昨日頼んだお座敷ねえ。あれはお前、確かにつとめてきてくれたのかい?」
圓朝はやさしい声で尋ねました。
「へい。あの昨日のお座敷って、例の年寄りの養老院の一件でございましょう。ええ、あれならもう間違いなく行ってまいりましたよ。落語家なんか滅多に来ないから、みんな『面白い、面白い』って喜んでくれるもんで、つい嬉しくなって馬力をかけてやりましたよ、五席ばかり」
「五席? おやおや、たいそうおやりだったねえ。して、何と何をおやりだったんだい?」
「病人の噺に、行き倒れの噺に、宿無しの噺だったかな。ついでに、ああそうそう。泥棒の噺を二席たっぷり聞かせてやりましたっけ」
「…………」
とうとう圓朝はお腹を抱えて笑い出してしまいました。場所もあろうに養老院へ行って、宿無しや行き倒れの噺をするなんて、これほど間の抜けた話はありません。
「あれ師匠。なんだって笑うんです。気味が悪いなあ」
「なんでもいいんだよ。それより圓太郎、私はお前に昨日、越中島の養老院の年忘れに落語をやってきてくれと頼んだんだよ。だのにお前、とんでもないところへ行ってしまったんだねえ。おまけにそこで泥棒の噺までおやりだったと言うじゃないか。まあ、その書付をよーく見てごらん」
くすくす笑いながら鉄舟居士の書いた半折(はんせつ)を脇へやって、圓朝はその下にあった奉書紙に包まれた書類をポーンと圓太郎の前へ放りました。恐る恐るそれを開いてみて、アッ!
さすがの圓太郎もドキリとしました。思わず顔色を変えずにはいられませんでした。

『今回、当監獄所の囚人へ落語を無料長演してくださり、奇特千万につき、模範囚人が苦心して調製した七宝製の大メダルを一箇贈呈する』

石川島監獄所主事 猪熊秀範
橘家圓太郎殿

ウヘツ。越中島の養老院だと今の今まで思い込んでいたのに。なんとこれはまた、石川島の監獄所へ余興に行ってきてしまったんだ。しかもそんな囚人たちを前にして、泥棒の落語を長々と熱演してきたなんて。
「やだやだ師匠。道理で養老院だというのに、若くて恐ろしそうな野郎ばかりぞろぞろいると思いましたよ。うう、気味が悪い」
大げさに立ち上がって身震いをした途端、
「ア、いけねえ!」
ひょいと蹴つまずいて、圓太郎は目の前の土瓶をモロにひっくり返してしまいました。
ダブダブとお茶が流れ出し、みるみるうちに鉄舟居士の半折が、端からシーンと濡れていきました。
「濡れる、濡れる! 早くどかしておしまい!」
さしもの圓朝も眉をひそめました。
「す、すみません! でも大丈夫ですよ師匠。ほーら、ちゃんとこの通り持ち上げていますから!」
鬼の首でも取ったかのように、圓太郎は両手でしっかりと土瓶のほうを差し上げていました。
「あら、違うわよ! 土瓶じゃないのよ、圓太郎さん。こっちのこの半折のほうなのよ」
いつの間に戻っていたのでしょう、そそくさと次の間から走ってきたお八重が、赤い襷(たすき)もかいがいしく、圓太郎を突き飛ばすようにしてビショ濡れの半折へ飛びついていきました。濡れた両端をそーっと持ち上げ、縁側まで持っていって日に当てます。
男勝りでキリッとした横顔が、朝日を浴びて薔薇色に輝いていました。
「すみません、申し訳ございません」
しかし、肝心の圓太郎のほうはまだ土瓶を差し上げたまま、いつまでもいつまでも謝っていました。

(恋ごろも)

「なんとも、彼ともお詫びの申し上げようがございません。これから本当に気をつけます。どうか御勘弁願います」
ひと片づけが済んだのち、圓太郎は平蜘蛛(ひらぐも)のようにペチャンコになって謝りました。しかし、もう圓朝は何事もなかったかのような顔をして、風雅な火桶に手をかざしていました。
「いいんだよ圓太郎。毎度のことだから、ここはもう慣れているけれどね。よそ様へうかがったときは気をつけなよ。お前は人一倍そそっかしいんだからね」
「申し訳ございません」
圓太郎は自分で自分が情けなくなっていました。穴があったら入りたい。本当にそんな気持ちでした。
「さあ、御褒美だよ」
二十銭貨が五枚、手をついている自分の前へ、圓朝の声と一緒にバラバラと落ちてきました。
「じょ、冗談しちゃいけません師匠。失敗したのに褒美なんて、そんなのあるわけがないでしょう」「そんな、がっかりさせるようなことを言わなくてもいいでしょう」

「がっかりなんてさせないよ。褒美というのは嘘だけれど、実はその一円で頼みがあるんだ。お前さん、元は大工だろう。ひとつ大工だった頃の腕を思い出して、一斗桝(いっとます)を作ってもらいたいんだ」

「一斗桝ですか。へえ、一斗桝というと師匠、一升桝の十倍ですねえ」

「そうだよ」

「一升桝の十倍か」

クリクリとした目をつむって、しばらく圓太郎は頭の中で計算していましたが、

「へい、よろしいですよ。明日の朝までに間違いなくお届けいたします」

「頼んだよ。ほかにも必要な金があればいくらでも出すからね。遠慮なく言ってくれよ」

「承知しました。じゃあ師匠、また明日の朝に」

思いがけず春の小遣いにありつけたうれしさで、圓太郎は有頂天になっていました。

「あ、圓太郎。もうひとつ頼みがあるんだ。頼まれついでにもうひとつ。台所に棚を吊ってくれないか」

「お安い御用です。すぐ吊りましょう」

ここが忠義の見せどころと、スッと圓太郎は立ち上がりました。菰冠(こもかぶり)の酒樽がひとつドデンと据えられ、輪飾りや七五三飾りがちらばっている大きな台所へ行くと、ちゃんと大工道具が置かれていました。お八重が棚板を二枚持ってきて、ニコッと笑って言いました。

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