今までずいぶんといろんな弟子をとってみたが、死んだぽん太とお前ほど奇妙な奴は初めてだ」
圓朝は笑いました。
ぽん太というのは、蚊帳(かや)を着物に仕立て直して、その四隅についている輪っかを紋の代わりに結びつけて平気な顔をしていた、そんな変わり者でした。
「幸いなことに、今日のお前の失敗も、近江の殿様は庶民の気持ちをよく分かってくださるお方だから、笑って許して事が済んだんだ」
「…………」
ああ、よかった。
圓太郎は心の底からホッとせずにはいられませんでした。
「もう今日からは、お前に前座と同じようなこまごまとした仕事は言いつけないから、安心して芸に打ち込みなさい。いいか、もう今月も今日で晦日(みそか)だから、正月の下席(しもせき)からお前は真打だ。両国の立花家で看板を上げるんだよ」
「えっ!」
圓太郎は自分の耳を疑いました。
真打に。この俺が真打だなんて。
考えられないことでした。夢のような話です。
ありがたい。自分の中から後光がさしてくるような、明るく晴れがましい気持ちになってきました。
「それにあわせてお前、真打が女房もなしでくすぶっていては、いつまでたっても出世できないぞ。お神さん(奥さん)を持ちなさい。私がいい人を紹介してあげよう」
圓太郎の顔を覗き込むようにして、圓朝は言いました。
いかにもこの弟子がかわいくて仕方がないといった様子でした。しみじみと伝わってくる師匠の温かい心遣いに、圓太郎の胸は熱くなり、ジーンと目頭が熱くなりました。
「お前、鳥越のお松さんを知っているだろう」
圓朝は言いました。
鳥越のお松は浮世節を語る人で、もう四十七、八歳の大年増です。デクデクと太っていて、小金を貯め込んでいると評判でした。
「お松さんなら、よく存じております」
「お前とは年が離れすぎているが、亭主を欲しがっているというから話をしてみたら、『圓太郎さんなんて嫌だよ』と断られてしまったんだ」
面白そうに圓朝は笑いました。
やれやれ。あのデクデクお松に断られるなんて、世話ねえや。
自分を嘲るような笑いが、自然と圓太郎の口元にも浮かんできました。
「それに新内のお舟、手踊りのお京、手品の春之助……いろいろと聞いてみたけれど、どれも帯に短し襷に長しでねえ」
「…………」
フン。どうせみんな、先方からお払い箱にされたんだろう。面白くもねえや。
圓太郎は心の中でふてくされていました。
「…………」
「ところがお前、捨てる神あれば拾う神あり、世の中は面白いねえ。あの、ほら、常磐津の文字捨(もじすて)ねえ」
いよいよひどいことになった。常磐津の文字捨なんて五十八歳だよ。
「あの文字捨に言われて気がついたんだがね」
なんだ、お捨婆さんじゃなかったのか。圓太郎は少し安心しました。
「お前、うちの八重(やえ)と一緒になってみる気はないかえ? 八重のほうがお前にぜひとももらってもらいたいと言っているんだ」
「嘘だ! からかっちゃいけねえ。だって、だって師匠、そんな……」
「いいえ、八重はお前の芸に惚れているんだよ。芸の良さに惚れている。あの子はああいう勝気な女だろう? だから、五分の隙もなく、何から何まで気がつく男はかえって嫌だと言うんだ」
「…………」
「第一、ほかの落語家が『簪(かんざし)だ』『櫛(くし)だ』と、あの子の気に入りそうなものを買ってきてはご機嫌をとるなかで、お前だけは八重に何ひとつ言いかけなかった。そこをまた、あの子はたいそう頼もしく思っているんだよ」
「…………」
言わなかったんじゃない。俺なんかにはとても資格がないと思って、最初から言い出せなかったんだ。
圓太郎は苦笑しました。
「じゃあお前、八重と一緒になっておくれかえ。不服はないねえ?」
しみじみと圓朝は言葉を重ねました。
「じ、冗談でしょう師匠! 不服どころか、あっしはもう……」
圓太郎は喜びで全身が汗ばむほどでした。寝耳に水のような嬉しさに、ウキウキせずにはいられませんでした。
「万歳――!」
「万歳――!」
そのとき、潮騒のように「万歳」の声が響きました。続いてドンズドンドン!と、どこかで景気よく花火が打ち上げられました。
なんだろう、あの騒ぎは。まさか八重ちゃんと俺が夫婦になるからって、祝ってくれているわけじゃあるまいし。
「馬車だ! 馬車だ!」
「乗合馬車だ!」
多くの人たちの声が流れてきました。
「圓太郎、乗合馬車が通るらしいよ。私は一昨日、煉瓦地(れんがち)で見たんだ。お前さんもまた何かの参考になるだろうから、さあ、早く茅町の通りへ行ってごらん」
思いやり深く、圓朝は言いました。
どっぷりと暮れきった師走の夜、屋根と屋根の間に覗く表通りの明るみを鳥瞰(ちょうかん)しながら。開通万歳
圓太郎が、二列三列とぎっしり詰まった人だかりの後ろに立ったとき、浅草見附のほうから再びドッと歓声がわき起こり、プープープーと異国情緒あふれるラッパの音が、馬車の響きと一緒に憂いを帯びて流れてきました。
思わず圓太郎はゴクリと固唾をのみました。
冷たい夜風のなか、甘く香る女性の黒髪の匂いがスーッと鼻をかすめました。
おや、と隣を見ると、
「……お八重ちゃん」
夜目にもくっきりと白い顔が、その美しい輪郭を見せて、大輪の花のように咲いていました。
「あら」
彼女はあわててお辞儀をしましたが、それっきりうつむいてしまいました。
いつもの勝気な様子とは違い、今夜のお八重ちゃんは、圓太郎の言葉も耳に入らないほどワクワクしているようでした。
プープープププー。
そのとき、ラッパの音がいっそう近づき、ハイカラな乗合馬車が、お客様を車体に鈴なりに乗せて走ってきました。
スコッチ服を着た御者が、御者台にキチンと座り、ときどき思い出したように片手でラッパを吹き鳴らしながら、通りを横切ろうとするお年寄りなどに、
「お婆さん、おい危ないよ」
と大声で注意を促しました。
いかにも文明であり、開化の象徴でした。
人々は感激し、熱狂しました。
興奮のるつぼのなかで、ラッパの音がやたらに鳴り響いていました。
「立派だこと」
お八重は切れ長の目をうるませていました。
「素晴らしい、本当にこいつぁ」
いつの間にかお八重の肩にぴったりと寄り添うようにしながら、圓太郎も満足そうにつぶやきました。
なんとも言えない幸福感で胸がいっぱいでした。
一晩のうちに背が三寸(約9センチ)もグングン伸びたような気分でした。
すると次の瞬間、圓太郎の素晴らしい芸術家としての欲求が、ムクムクと頭をもたげてきました。
それは、文字通り日進月歩で進む開化日本の象徴のような、このきらびやかな乗合馬車の姿をこの目で見たからでした。
見るからに急成長する国の勢いを誇るような馬のいななき、そして轍(わだち)の響きを耳に聞いたからでした。
颯爽と時代の新しい風が、乗合馬車そのものに吹き荒れていました。
そしてそれは、圓太郎のような男の胸にまで、生き生きとした衝撃を投げつけずにはいられませんでした。
まぶたが熱くしびれるような、言いようのない興奮でした。
感激でした。
そうだ。
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