初級翻訳・卵塔場の天女 第21話

卵塔場の天女

――一体全体、女面(おんなめん)の目の穴から外の世界が見えるわけがないのに、なぜか(※指が複数くっついている奇形を指して)駢指(せんし)の人が目の前にすっと立っているような気がしたんだよ」
「そう、まさにそのことですよ。
(余計な親戚や血縁なんて、駢指みたいなものだ。血も肉も一つの身体になって溶け合うのは、可愛い、恋しい人同士だけなんだから)って……。
――あら、タバコを吸っているから、その火の光でチラチラとお兄さんの顔が見えちゃって、いくら私だって何だか恥ずかしいわね」
「なんだ、そんなの気にするもんか。まったく、その通りに違いなんだから」
「お兄さん、やっぱりそう思いますか?」
「間違いないさ」
「それならどうして、お久さん(※八郎の元妻または関係者)が目の前に立ったとき、『あぁ、自分は今から叩かれるかもしれない』なんて予感がしたんですか?
――それはきっと、世間体が気になったからでしょう?
妹やその親戚、その他大勢のどうでもいい人たちに対して、冷たくしちゃったら人に申し訳ない、って思うからでしょう?」
「世間かなんてどうでもいいさ。
人間同士のことだからね。
でも、舞台の上では自分は天人(てんにん)になっているからさ」
「天人なら、餓鬼(がき)や亡者(もうじゃ)を見ても、畜生(ちくしょう)や犬を見ても、みんな自分の髪にかざすお花の一つだと思わなければならないのかもしれませんね。
それなのに、どうして人間そのままの姿でいるとき、楽屋の裏口でお久さんの娘の婿が、水色の着物の袖をヒラヒラさせて現れたとき、彼が持っていた『たたき込んだ張扇(はりおうぎ)』などで、人の大切なお姉さんの娘をタダでこき使って水仕事をさせ、抱きしめたりまでして、姑にいじめ抜いたあげく、トラホーム(目の病気)がうつるからって実家に追い返した……その横っ面をどうして叩き潰さなかったんですか!
私は、叩き潰せばよかったのにって思ったわ。
叩き潰してほしかったよ、お兄さん。
私はね、弱くて、優しくて、おとなしいお兄さんしか知らない。
――14歳で無理やり亭主を持たせられたあの頃だって、『ああ、お兄さんがもう少し強かったら、もっと乱暴だったら、悪党だったらよかったのに』って思わない日はなかったんです。
――
きっと、芸事の世界で気が強くなったんでしょうね。
――
昨夜は、お別れしてから十何年ぶりかの再会だし、それに、昨夜のあの話は……善い知識(お坊様)や名僧のありがたいお説教、あるいは神仏のお告げだなんて言うよりも、もっともったいないくらいだったわ。
夜叉(やしゃ)や悪魔の教えでも構わない、あんなに嬉しい話を聞いたのは、生まれて初めてでした。
だって、『余計なものは肉親だって駢指のようなものだ。(血と肉が一つに溶け合うのは、可愛い、恋しい人ばかりだ)』って、そう仰ったでしょう……」
「私は、それを心から信じるよ」
「本当に信じますか……。
……確かなんですね?
――そうしてくれるなら、私だって、今家にいる亭主なんて、ただの『駢指(邪魔な存在)』だわ!」
私は思わず、自分の舌をペロリと突き出しました。
「待て待て、ちょっと待ってくれ。
――それはあくまで、芸の上での話だよ」「うぞう、むぞうに集られると、能役者じゃいられない、謡の師匠で、出稽古に信玄袋を持って廻らなけりゃならないというんだよ。」
八郎がそう言うと、お悦はこう続けました。
「舞台だけの役者だって、私は、お兄さんの羽衣の天人さまのお顔を見ているより、青めりんすの着物を力いっぱいひっぺがしたり、余計な親戚や血縁なんて駢指みたいなものだという講釈を聞く方が、どんなに嬉しいか知れません!
あすこで、あの羽衣の姿で、面をつけて、雲から降りてきたそのままで、何千人ものお客さんの前でその講釈をしたら、どんなにか気持ちがいいことでしょうに――。
なのに、青めりんすは脱がないし、じれったくて、じれったくてたまらないところへ、あまりにも姿が本物の天人さまのようにお上品でいらっしゃるから、『このままフッとどこかへ消えていってしまいはしないだろうか』って、私、夢中で血迷ってしまいましてね。
とにかく止めようとして、はっと気がついたら、私が舞台の邪魔をしちゃっていたものだから、私まで『お前も駢指のようなものだ』って、お兄さんに言われそうな気がして、カッと悔しくなったし、腹も立ったし、そうしたもんだから、思わずピシャリと叩いたりなんかしてしまったんです。」

「いや、もっともなことだよ。
芸を極めて、すっかり天人になりきっていれば、羽衣さえ取り返せば、人間なんてどうでもいいはずなんだけれど、まだ自分は未熟だから、いろんな雑念が混ざってしまって、正面を切って芝居をやり切れないんだ。
第一、はじめに舞台へ上がってきたとき、私は不意に亡くなったお母さんが出てきたのかと思ったよ。
お久に対するやり方が間違っていたせいかもしれない――。
ちょうど客席のあのあたりで、お母さんに抱っこされて能を見たことを覚えているからね。
はっとして、それが姉さんのことだと気づいたときは、『ああ、自分は斬られるんだ』と思ったよ……スパッと鋭い出刃包丁でね。
……舞台の上へバタリと倒れたときは、自分は鮒(ふな)になったんだと思った。
いや、鮒というより金魚だな。
赤く染まった舞台の床を、鏡板に描かれた松の絵を藻に見立ててスイスイと泳ぐ……。
いや、もっと小さいな。
赤いまだら模様の可愛い金魚だ。
赤いまだら模様の金魚も、なかなかオツなものさ。
――おお、こうなるともうお酒の肴(さかな)は出来たようなものだな。
姉さん、姉さん、何かいいものを持ってきているんだろう?」

「どこでも構わないから、ひと息つくために、お兄さんと会ったところで一緒に飲もうと思ってね」

「それじゃあ頂こう――おや、お茶碗がないぞ」

「まさか、お寺の台所からお皿を借りてくるわけにもいかないしね」

「とんでもない、今の私たちは世間から隠れる落人(おちうど)なのだから。
――おや、ちょうどいいものがあるじゃないか。
あの美人の従妹の『骨壺(ほつきょう)』だ。
これに『小鼓(こづつみ)』という名前をつけてみようか。
この黒い胴体でお酒をつぎ合おうじゃないか、どうだい?」

「ああ、好きになさいよ。
自分がやりたいと思ったことをしないでどうするんですか。
たとえ毒になったって、誰も止めやしないわ」

「その意気だ――それじゃあお燗はどうしようか、このへんに落ち葉を集めて……」

「すぐに用意できますよ」

「じゃあ、さきに一口、キュッとつづけてと……。
……ふーっ、さて、こうしてすっかり度胸が据わったところで、もう一杯いこうか。
私のこんな気弱な性格じゃ、舞台に立てば叩かれるし、謡の出稽古なんてしたくないし……。
実は、みっちりこれからのことを考えようと思って、このお墓の中に逃げ込んできたんだがね」

「よく、楽屋であんな騒ぎのあとで逃げ出せましたね」

「騒ぐ暇なんてありゃしないさ。
それに、もし騒いだところで、まわりの玄人の連中は、いずれ東京へ出るときに世話になろうと思う連中ばかりだから、そっとしておいてくれたのさ。

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