真夏などは、潮が引いている短いあいだにすっかり乾ききって、壁のように固まり、稲妻のようなひび割れが入ることもある。
そこへ一潮(ひとしお)、田越川から水が上がってくると、じゅうっと水がしみ込み、ひび割れからぶつぶつと泡が立って、やがて満々と水をたたえるのだ。
潮が入ると、さすがに濡れずには通れない。だからここにも一つ――さっきの橋とは十間(約18メートル)も離れていない場所に、また橋が架けてある。
といっても、わずかな板を持ってきただけの、投げやりな橋にすぎない。
池が狭まり、その板を渡した切れ目は、五歩もないほどだ。
水は川から流れ込んで橋を通り抜けると、土手のようなあぜ道に沿ってヨシの根元へしみ込み、どこへともなく隠れて、田んぼのあぜへと落ちていく。
今はちょうど潮時で、一面に薄く水がかかっていた。
けれど、水面よりもヨシの葉の影の方が濃く見えた。
今日は、あっちの橋が鳴いたからには、ただ通り過ぎるわけにはいかない。
「待てよ、ひょっとしたらこれも歌うかもしれない」
そう思って踏み出し、二歩ほど板の真ん中で立ち止まってみたが、何も聞こえない。
もともと聞こうと強く思っていたわけでもないが、なんとなく夕暮れの静かな水の音が身にしみる。
岩の端や、ここにも一人、まるで納涼台に腰掛けているかのようにそこに居座り、満ちてくる潮をじっと眺めてしばらく過ごした。
水の面すれすれに、むらむらと動くものがある。
何か影のようなものが浮いていく。
……最初は、ヨシの葉につかまったカニが水面に映って、流れる水に揺れているのかと思ったが、そうではない。まるで意志があるかのように、橋に沿って行ったり来たりしている。
満ちてきた潮が澄んでいるので、のぞき込んでみるとよくわかった。子どもの拳くらいの大きさで、ふわふわと泡を束ねたような形をしている。
つかみどころがなく、ちぎれ雲が空から影を落としたのかと思えるほど、ぬめっとしていて、ふうわりと軽い。
全体は薄い樺(かば)色で、黄色い斑点(はんてん)がむらむらとしていて、流れのままに出たり消えたり、結んだり解けたりしている。どんよりと濁った肉のようで、半分は水に透き通っているこれは、ほかの何でもない、虎斑(とらふ)のクラゲだ。
生き物だから不思議はないのだが、いや、実に楽しげに戯れている。
自在に動く。
……かと思えば、底の方でもなく、真ん中でもなく、上でもなく、一本の透明な衣をまとっているかのように、ふらふら、ふらふらと漂っている。……斜めに伸びて流れるかと思えば、むっくりと真っ直ぐに頭を立て、次の瞬間には横になって、すいと通っていく。
あたりには、ほかに浮かんでいるものは何もない。
この池を独り占めして、得意げな様子だ。目も耳もないからか、じっと見つめる私の顔が映っている水面の上を、ふいと勝手に泳いで通り過ぎ、通り過ぎては引き返し、また横切る。
それがただそれだけのことではなかった。
実際に、そこにしゃがみ込んでいる私の胸の幅、たった一尺(約30センチ)ばかりの間を、わざとらしく泳ぎ回って、「これ見よがし」に、のっぺらぼうな姿を見せつける!
なんだか憎たらしい気がする。
ひざを割って勢いよく手を突っ込むと、水がさらさらと腕に絡みつき、まるで一休法師のようにすっと退いて、影も形も残らない。
腕を伸ばしても届かない向こう側で、くるりと回るふうをして、澄ましてまた泳いでいる。
「この野郎」
と思わずつぶやいて苦笑した。
「待てよ」
獲物にしてやろうと立ち上がって橋の端へ寄っていくと、ふわふわとついてきて、板とヨシの根がぶつかる隅へ、足の近くまですいとやってきた。カニの穴なのかヨシの根なのか、ぶくぶくと白い泡が立ったところへ、ひょいと何事もなかったかのように被さったらしい。
「ふっ」と言いそうな様子で、泡を払うかのようにむくりと浮かび上がった。
その瞬間、ヨシの根を一本断ち切って、逆手に取った。くねくねした奴の胴中を巻いて、水に追いやってやる。
離れたところから突っ込んで、横へ寄せ、夢中で泳いでいるところをすいとすくい上げると、つるりと引っかかった。
ジュンサイが絡みついたように見えたが、引き上げた雫とともに、つるつると滑り落ちて、もう何にもなくなっていた。
「タコの燐火(りんか)よ、退散だ!」
それ見たことかと、もう勝ち誇ったような気分で、ヨシの穂を頬にすり寄せ、杖をついたところまではよかったが、同時に目が吸い寄せられたのは潮の入り口だった。
川からさらさらと押し寄せてくる、ヨシの根の二間(約3.6メートル)ほどの切れ目の真ん中。
橋と真っ正面に向き合うところで、くるくると渦を巻き、坊主め、色も濃くカッと赤らんで見えるまで、飛び上がるような勢いで、むくむくと浮き上がってきた。
ああ、人間に恐れをなして、そこから川筋に乗って海へ逃げていくのか、と思ったが、そうではなかった。しばらく同じ場所で影を練り合わせるように、浮いたり沈んだりしていたが、やがて、すいすいと横泳ぎで、しかし用心深そうな態度で、ヨシの根づたいに大回りをして、ひらひらと引き返していく。
ヨシの穂は白く、葉の中は暗くなって、黄昏の色は、枯れかけた草の葉の先に敷き詰められた。
クラゲに黒い影が寄り添って、水を分ける輪が大きくなる。
そして動くにつれて、潮はしだいに満ちてくるようだった。
水の面が、水の面が、脈を打って、ずんずん広がっていく。
かさが増す潮は、差し口を挟んで、川べりのヨシの根を揺さぶる……ゆらゆらと揺さぶる。
一揺り揺れて、ざわざわと動くごとに、池は底から浮き上がるように見えて、しだいに水は増してきた。
水面に映る影は、人も橋も深く沈んでしまった。
もはやこれでは、玄武寺をひっくり返して投げ入れたとしても、その峰は水底に届くまい。
ヨシのまわりに円く広がり、大海の潮を吸い込んで、穂先に滝のような瀬を作り、水面が高くなる川面から注ぎ込む。それが一揉み揉まれて、どうと落ちる……一方の出口は狭い通り道なので、橋の下は颯々と瀬になり、あぜ道に突き当たって渦を巻く。そこにあるヨシは、葉の裏を乱してぐるぐると舞い、それに連れて穂綿が、はらはらと夕暮れの空を蒼く飛んでいった。
(さっ、さっ、さっ、
しゅっ、しゅっ、しゅっ、
エイさ、エイさ!)
と、まるで矢を放つような声を上げて、潮を射て駆け抜けるかのように、水の音が聞こえてくる。
と見ると、竜宮の松明を灯したように、その体からどんよりとした光が放たれた。
白い炎が、影もなく橋にぴたりと寄せたとき、水はもうヨシの穂をかぶるばかりに見えた。
ぴたぴたと板が鳴り、足元がぐらぐらとしたので、私は思わず飛び退いた。
土に下りると、早くもそこまで水が来ていた。
橋がだぶりと動いた、と思った瞬間、クラゲはむくむくと泳ぎ上がった。
水はしだいに溢れ出し、光る物体はすっと尾を曳いていく。
この生き物は、風の生臭い夜に、空を飛んで人を襲うと聞いたことがある……暴風雨の沖では、海坊主にも化けるのだろう。
逢魔ヶ時(おうまがとき)の気配に、慌ただしく引き返して、もと来た橋に乗ると、
(きりりりり)
と音がした。
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