初級翻訳・卵塔場の天女 第14話

卵塔場の天女

「もうこうなったら、私、橘八郎はここで討ち死にする覚悟です」
「なんだって!」
「その代わり、明日は『羽衣(はごろも)』の天女の衣を着て、すっかり化けて出てみせますよ!」
「なにをふざけているんだ!」
「ああっ、よく見てください、その菊の花の下は、深い井戸ですよ!」
お悦さんの大きな声に、男たちは「わっ!」と驚いて思わず後ろへ飛び退きました。
しかし、すぐにまたひと固まりになって、グイグイと詰め寄ってきます。
私は思わず、お悦さんの肩越しにその様子を見つめました。

ここで実に不思議だったのは、そのお悦さんの着物の袖の下から、丸くて白い、まるで仏教の法然(ほうねん)上人のようなツルッとした頭がひょっこり見えていたことです。
このおじいさんは、黒光りする古い茶ダンスと、長火鉢の隅っこを陣取り、そこへ一人だけポツンとお膳を置いて、ずいぶん前からずっと一人きりで、お酒を一口ずつチビチビと飲み、飲んではうとうととうたた寝をしていたようなのですが、ぶ厚い布子(ぬのこ:綿入れの防寒着)を着て、まさにこのタイミングで、
のこのこと店先に出てきたのです。
そして八郎と並んでドンと座ると、片手を自分の膝に置き、もう片方の手は手のひらを斜めに向けて、自分で作った自慢の菊の花をパタパタとあおぐようにしながら、こう言いました。
「お客さん方、ちょっとその菊の花を見てくださらんかね……。
もしこの白い菊を褒めてくれるなら、そうだなあ、この私が作るおしろいを一つ進ぜよう。いや、色鮮やかな菊を褒めてくれるなら、うちの特製の紅をあげよう。
どちらも一包みずつ、素敵な景品として差し上げますぞ!」
そして、にっこりとほほ笑んで、
「どうでっかな?」
と言ったのです。

提灯の明かりが黄色や白に揺らめく中、菊見の客たちがすっかり帰ったあと、みんな揃って座敷に入ったとき、お久という女性は、自分の器に残ったご飯粒をきれいに食べ終えて箸を置き、それから後ろを向いて自分のお膳に向かってパチンと手を合わせ、おがんでいました。

「ご覧なさいよ……あの通りなんですよ」
「嘘や大げさに言ったり、もの好きを気取ったりするわけじゃないけれど、お囃子の人たちは宴会の席に裃を持ってきていたかもしれないけれどね、今やってきた連中は十人いたら十人残らず、申し合わせたように四角い風呂敷包みと、革の折カバンを持っていたでしょう?
あの中身は全部、歌や能の台本(謡本:うたいぼん)なんですよ。本当に恐ろしい人たちだ……。
そのくせ、その他大勢の連中は、重なり合うように取り囲んでは、ここをこう節を付けて、自分たちばかりが盛り上がって勝手に謡い出したりするんです。
なのに、いざ明日になって、実際の舞台を見てみるとどうだい。
誰も、遠くに見える富士山も、三保の松原の景色も、本当の意味で見ちゃいないんだよ。
気まぐれに舞を見る人たちは、ただ間違い探し(ごま点)ばかりを気にして首を突っ込んでいるから、目の前で舞う天人の顔すら、まるで黒いあばた(痘痕)だらけのようにしか見えていないのさ」
八郎は、まるで自分が恥ずかしいとでも言うかのように、雪代から借りた羽織をすっぽりと頭からかぶってしまいました。

その通りだ。
――今から十五の年、彼を養子に迎えた、その流派の長老であり大名人だった養父も、全く同じことを嘆いていたという。
若い頃に上京した当時、八郎は舞台のすぐ近くにある、とある外国語学者の家の玄関で、書生として暮らしていた。
祖父も、叔父たちも、親族みんなどこかの故人だが、揃って能楽師だった母方の血を受け継いでいる彼は、能が大好きで、時間ができるとこっそり劇場の舞台を覗き見していた。
そのうち劇場の人たちとも顔馴染みになり、その長老の娘さん――八郎よりも五歳ほど年上で、とても優しい女性で、彼はまだ可愛らしい小僧だったものだから、自然と可愛がられるようになった。ある日の能楽の会の日、お昼ご飯の弁当をご馳走になりながら、お茶をいれて二人で向かい合って食べていた時のことだ。

――そこへ、衣装の着付けをすっかり袴姿に直し、扇子を片手に持った、何とも渋い顔をした六十七歳の老人が、ズカズカと入ってきた。
「うまくやっているな、坊主。能の勉強のほうはどうだ?」
彼は大切にしていた蒲鉾(かまぼこ)をほおばりながら、こう言った。
「何だかよく分かりませんけれど、小父さんは舞台の上でいろんなものに化けるんですね」
「なんだって?」「だって、舞台の上では、あの色の黒いシワだらけの手首のところが、まるで雪のように綺麗で真っ白だったんだもの!」
それは、天女の持つ扇を掲げた手のことでした。
当時、その大ベテランの元老は『羽衣』の天女を舞ったのです。
「そして、《富士の高嶺に雲は気色(けしき)を変え、天つ御空(みそら)の霞にまぎれ……》というところでは、小父さんの身体が、まるで橋がかりの松の上へと、ふわりとすーっと舞い上がったんだよ!」
「生意気なことを言いやがる!」
老人は、おばあさんの御新姐(ごしんね)が持ってきてくれた冷や酒を、ガラスの盃で代わる代わる三杯もグイッと飲み干しました。
しかし、しばらくうつむいたかと思うと、ニコリと笑い、胡坐(あぐら)を直して、トンと袴を叩きました。そして、何かを思い出したように、スッと立ち上がって楽屋へと戻っていったのです。

同じようなことが、また別の時にもありました。
それは、盲目の人物を演じる『景清(かげきよ)』のときです。
「小父さん、今日もすごい化けっぷりだったね!」
「化けた、か……。なんだか知らないがね、荒磯(ありそ)の小さな小屋に小父さんが一人ぽっちでいてさ――《目こそ闇けれど……》どうとかして――《寄する波も聞こゆるは……》って言った途端に、舞台全体がざあと大きな音がして、本当に庵(いおり)のすぐそばまで荒波のしぶきが押し寄せてくるのが見えたんだ……まるで魔法使いみたいだったよ!」
それを聞いた老人は、おばあさんの御新姐の手から冷や酒を三杯立て続けに受け取り、袴の上に両手をついて、じっとうつむきました。
けれど、渋い顔をしながらも、ほろほろと大粒の涙をこぼしたのです。
「このお前の話を聞きたいために、俺は五十年間も苦しい修業を続けてきたんだ。
おばあさん、さあお祝いだ、うんとご馳走をしてくれ!
みんな揃って一緒に飲もうじゃないか!」

そして後日、八郎が内弟子(うちでし:住み込みの弟子)として正式に認められることが決まったときのこと。元老がこんなふうに尋ねました。
「おい坊主、これからしっかり修業をして、いつか本当に舞台の上に本物の『波』を出せるようになるか?」
すると八郎は、間髪入れずにこう答えたのです。
「そんなのできないなら、バケツに水をたっぷり汲んできて、舞台にぶちまけてやりますよ!」
――「『お上品に手桶(ておけ)とも言わないで、なんだい、バケツとは!
まあ、水を打ちまくるかわりに、私が代わりに舞台の雑巾がけでもしてやるよ。ハハハ!』」
月日が経ってから、元老は嬉しそうにみんなへそう自慢して回ったのでした。
そしてついに、八郎が娘の婿(むこ)として迎えられることが決まったのです。

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