六
「――先生、先生、橘先生――これはまた一体どういうことですか!
……すでに電報でも二度におよんでお伝えいたしましたのに、ご到着のお時間どころか、東京をご出発されたというお知らせすらいただけないなんて、幹事の私たち一同はすっかり大狼狽(だいろうばい)でございますよ!
もちろん、能の催しはいよいよ明日に迫っておりますから、あなたが到着されないなんてことは絶対にあり得ないと信じてはおりますものの、みんな気が気ではありませんでした。
盛大な歓迎会や、有志のご紹介の席も、昨日だけで三つほど、そのための準備がすべてお流れになってしまったという始末でして――」
これから先、集まった人たちが口々に発したお決まりの言い訳やセリフの数々は、読者のみなさんのご想像にお任せしたほうが良いだろう。
「――当方で事前にご指定いたしました旅館にお泊まりでなくても、先生がお好きそうな四軒や五軒のまともな旅館はすべて探し回りましたが、どこにもいらっしゃらない。
いよいよ今夜に迫ったからには、何が何でも絶対に今日中にお着きに違い違いないと、町中の旅籠屋(はたごや)という旅籠屋でめぼしいところを、ご覧の通りこの大人数で――」
手に持った提灯が五つ。しかもそれらは、格式高い弓張提灯や、馬に乗るときに使う家紋入りの立派なものだった。
オーバーコートを着た紳士、道行コートを羽織った年配の男性、羽織袴姿の男は、外套を脱いで小脇にしっかりと挟んでいる。
菊の花が飾られた土間に、以上の七人がずらりと並び、軒先や溝石のあたりまで人があふれ、さらに後ろにはあと四人ほどが控えている。
「――ですから、念のためにと停車場(駅)にも大人数を派遣していたような次第でして、やっとの思いで、とんでもない意外な旅の宿でお名前を見つけたわけです。
しかも、それもほんのたった今のこと。
それなのに、肝心のあなたが宿におられない。
それなのに、それなのに、何がどうあろうとも、明日の演能を控えて今夜までここにいないなんて法は絶対にあり得ない! 『とにかく探せ、徹底的に探せ!』と決意して、この町一番の高級料亭である某楼に、橘八郎先生の盛大な歓迎の席をご用意いたしました。名士や貴婦人たち、数多くの主要な有志をはじめ、ワキ方、ツレ方、囃子方(はやしかた)にいたるまで全員が勢ぞろいして、すでに皆さまお席にご着席なさってお待ちかねなのです――
開会予定時刻は五時と申しておりましたのに、気づけばすでに八時をとうに過ぎております。
私たち幹事連のこの焦る心と苦しい思い、どうぞどうか、どうかお察しいただきたい!
それなのに、やっとの思いでご自宅へ伺えば、お内儀(おかみ)さんや、お新造さんとご一緒に、公園へ紅葉狩りなどにお出かけになられていたとは――」
――そう言われているお悦さんは、まるで世話狂言に出てくる町家の女房のような出で立ちで、暖簾(のれん)の隙間から、細い格子戸越しに外の様子をじっと覗き見ている。
八郎は、冷たい框(かまち)の板敷きの上に、ピタリと両膝をついていた。
その、いわゆる……「餅屋は餅屋」というか、どこで用意していたのか、扇子を帯に差し込んだままで出迎えに出てきたものだから、酒の勢いで上着を脱いでいたため、着流しのそげ腰で、いかにもみすぼらしい格好のまま、土間に飛び出さんばかりに深々と上半身を倒し、お辞儀をしているのだった。
提灯の明かりが、吹き抜ける冷たい風とともに、菊の花の上の霜を揺らしながら、忙しく揺れ動いていた。――みんなで綱を引き合うように引っ張ってきて、やっとの思いで顔を見てホッとしたのも束の間、八郎はそんな安心などさせる隙もなく、「そんな賑やかなパーティーになんか出られません! ご覧の通り、すっかり酔っ払ってしまいましたし、こんな状態で宴会になんて出たら、明日の大切な本番にさしつかえますから……」と、誰も頼んでもいないのに、酔っ払っているのをいいことに、行かない理由をペラペラと言い訳し始めるのでした。
考えてもみてください、こんな状態の彼を、そのまま「じゃあ仕方ないね」と引き下がるわけがありません。
押し返したり、引っ張り出したり――押し込もうとしたり、突き放したり。
腕を引いて連れ出そうとしては、また引きずるようにして押し戻す。
もう、収集がつかない大騒ぎです。
私(語り手)でさえ、「そりゃあ、こんなめちゃくちゃな状況じゃ収まるわけがない」と思うほどの混乱ぶりでした。
そんな中、立派なヒゲを生やした一人の紳士が、公的な役職の肩書を名乗って言いました。
「この場には、かつての藩主様の一族であるご老体も見えておるのだぞ。
私もまた、武士の血を引く人間だ。
さあ、おとなしくおいでなさい!」
そう言われた瞬間、
「能役者はただの一般人(町人)ですがね、まあ失礼させてもらいますよ」
と八郎はぶるっと身震いをしました。
その場にいた全員が、ハッと息を呑んで黙り込みました。
辺りは水を打ったように静まり返りました。
お店に残っていた、息子や若い衆たちも、ただ事ではない気配にハッと身構えました。
「さあ、お酒を覚ましなさいよ」
お悦さんが小さな声でそう呟くと、
「雪代、雪代」
とスッと歩み寄り、
「あ、家の奥のことは、お嫁さんにやってもらわないと気まずいね……お姉さん」
と声をかけました。お嫁さんはもう、台所から半分ほど体を乗り出していました。
「広袖(お出かけ用の着物)を出しておくれよ……二階にあるからね」
「まあ、小父さん、寒そうね」
と雪代がお店の方へと出ていき、紺地に薄いお納戸色(緑がかった青灰色)の柳立枠(やなたてわく)の模様が入った羽織を、白い手で、しゃがみ込んでいる八郎の痩せた背中へ、ふわりと優しく掛けました。
帯の結び目はしなやかで、着流しの着物姿はいっそうしっとりとなよなよとしており、八郎の目元はほんのりと色づき、睫毛(まつげ)が濃く、まるで蕾(つぼみ)のような紅色の唇が、艶やかに、おだやかな鬢(びん)の毛の陰からちらりと覗いています。
「お似合いですなあ、ははあ、先生」
「これではとても、ご出席なんて無理でしょうねえ」
「いや、君たち、何を言っているんだ!」
武士の血を引く紳士は、顔を真っ赤にして怒り出し、一歩前へ出ました。
「お聞きなさい、橘さん……いいですか、たとえどんなに地方であっても、東京から家元と変わらないほどのお偉いあなたが来られるというので、今夜の打ち合わせのために、地謡(じうたい)や囃子方(はやしかた)の一員たちは、たとえただの酒席であっても、わざわざ正装の『裃(かみしも)』までちゃんと用意して待っているのですよ! 一体全体、この有様は何事ですか!」
八郎は、紅を引いたような口元をグッと引き締めました。
まるで梅が香り、柳が風に揺れるかのような妖艶な雰囲気が漂います。
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