心の底からのせつない涙だったから、なんだか着換えるのがもったいなくて……」
私はあやうくその背中にそっと手を伸ばしそうになった。
翌日の朝、汽車で出発する時、雪代さんがひとりで衣の衿元(えりもと)をきちっと正して見送ってくれた。
もう一人、中学の、ぐしゃぐしゃにつぶれた制帽と制服を着て、あちこち鍵裂きだらけで、素足に高い一本歯の下駄を履いた元気いっぱいの少年がいた。
宴会の席などではすっかり忘れられていたけれど、この少年こそ雪代夫人の弟だった。
「……先生、学校じゃあ、先生も生徒もみんな知ってるんですよ、先生がこっちに来たってこと。
僕、もっとお話が聞きたかったのに、この姉貴なんかが邪魔しやがって……」
「邪魔なんてしてないわよ!」
「なんだと、このおかめ! うるせえな!」
「ああっ、もう電車の時間が出ますよ――先生、八郎さんがくれぐれもよろしくって言っていました。
……ほかにお見せできるようなものはありませんけれど、どうかぜひ、白山(はくさん)を見ていってくださいって。」
「先生、いちばん近いところだと、布村(ぬのむら)っていう駅を出て、千五百メートルほど歩くと、やっと真っ白な山の頂上が見えるんですからね。
――だけど、谷内谷内とは方角が全然違いますけどね。」
私はその学生に手を差し出した。
「君、握手をしよう――お姉さんは、もうほかの人の奥さんだからね。」
「まあ、いやらしいこと……」
学校の生徒たちに教えている私の学問の名誉のために、ここではどんな講義をしているのかは黙っておこう。
白山は、青く深い雲の合間に、まるで雪の身体を持つ竜が、美しい玉の翼を広げて大空へ飛び立ったかのようにそびえ立っていた。
もしもこの山に不遜な真似をする者があれば、その竜の羽毛が一本ずつ銀の矢となって飛んでいくだろう。
だが、その暗い雲にすっぽりと包まれた山のふもとの底には、きっと一ヶ所、あの野墓地の小さな小屋があって、二人が今も仲良く火を燃やしているような気がしてならないのだ。
八郎は、まだ東京へは帰ってきていない。
――そして、その細君である彼女は、今も病の床にあるのだ。
(昭和二(一九二七)年四月)
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