」
八郎はグラスの酒をグイッとあおると、
「省線電車――まあ、あの電車に乗ったと思ってくれ。
真夏のことでね……五十面(としを重ねた顔)をテラテラと磨き上げて、薄い髪を白髪染めで染め、油と香水で真ん中からきれいに分けて、――暑いから帽子なんか被らない――まるで化粧でもしたみたいに、白赤く脂ぎった大きな顔の顎を突き出して、仰向けに薄目を開けている。広い額がテラテラと光り、べっとりと眉毛に墨を塗っているのがよくわかる。
目の粗い紗(しゃ)の横縞の袴をピッと突っ張り、折れ革のカバンをそばに置いて、きちっと喉もとを締めた浅葱色(あさぎいろ)の絽(ろ)の襟元を扇子でパタパタとあおぐと、シャリシャリと音がする薄羽織の五つ紋とりっぱなもんだよ。
――この紋がまた、いかにも『おエライ先生』って顔をしている。
あれをどう見える――俳優ともつかず、お遊芸の師匠ともつかず、早い話が、山姥(やまうば)の男妾の神主の化けた姿だよ。
……すこし離れた向こうの席で、しかもふんぞりかえっているその男を、ちょうど私のそばに居合わせた――これはまた、土用の真っ最中、ひどい猛暑のなかに勉強熱心だな――いかにもまともそうな本場の芸者を連れた、目立たない洋服を着た男がいて、その色ボケ親父をジッと見ながら、芸者とヒソヒソ囁き合っていた。
『あれは一体なんだろう?』
『――分かった、能役者だ。』ってね。
私はそれを聞いて、ゾッとして鳥肌が立ったよ。
だって、まさにその通りなんだから……。
……流派は違うが、額も鼻も光る先生、それなりに一人前のお役者で、世間の評判の後家さん――いや、未亡人――いや、お妾さんをたらし込んでいる。
――あとで知ったことだが、その正体を当てた男は、何とかいう有名な小説家だったって――やっぱり『餅は餅屋』だなと思ったよ。
――
そんな脂ぎったやつがいるかと思えば、病気上がりですっかり青白くなり、頬をこけたインバネス(ケープ付きのコート)の下からボロボロの信玄袋をぶら下げて、ゴホゴホと咳をしながら、日の当たる道をすり足で歩いているやつもいる。
お弟子さんの家を回っているのさ。
『どうなさいました、先生。』
『――あいかわらず腎臓がどうもいけなくてな。』なんて、聞いていて本当に情けなくなる。
だが、決して悪く言っているわけじゃない。
贅沢して太ったやつも、生活に吸い取られて痩せ細ったやつも、みんなこれ、お互いに生きていくためなんだ。
今日の餌食を稼ぐためなのさ。
お前一人だけなら、どうにか中くらいに食べていけるかもしれないが、結局のところ、妻子や家族、さらには親戚一族のつながりがあるから、働かずにはいられないのさ。
やっと夫婦ふたりで、その日暮らしの餌を拾うだけで精いっぱいだから、どうにか能役者の真似事もできている。
……この上に子どもでも産まれてごらん、その日からすぐに革カバンを提げたお謡の先生に成り下がるんだ。
もちろん、お謡の先生ならお謡の先生専門でやっていくなら結構なことだけれどさ。」――でも、そうするとなったら覚悟を決めるさ。
夫として、そして親として、妻や子どもたちにご飯を食べさせるのは当然の義務だからね。
だから僕は、できることならお謡の先生にはなりたくないんだ。
だけど、それでも食べ物が足りなくなったら、まずは女房の前にしっかりと手をついて謝るよ。
「他所(よそ)の大切な娘さんの、まるで玉のように大切なお体を自由にさせてもらっておきながら、何の恩返しもできなくて本当に申し訳ありません。
これ以上あなたを養ってあげる腕が僕にはないから、深くお詫びした上で、あなたのお体だけでも実家にお返しします。
女としての価値を落とすわけじゃない。どこへでも好きなように行って、自由に暮らしてください」ってね。
そんな苦しい状況のなかで、一体誰が五人も七人も子どもなんて生ませるものか、そんな無茶苦茶なことができるもんか!
妻の側だって、子どもなんて本当は生みたくなくたって、そうはいかないのが現実だ。
男の我儘(わがまま)を正当化するわけじゃないけれど、そもそも腕力で比べたら女の人は力も弱いし、男に従わされることになってしまう。それは全部、亭主の思いやりのなさや不心得が原因なのさ。
もしそんな悪い奴らが世にはびこるようになったら、たちまち能役者がお謡の先生を兼ねるような事態が起きてしまうんだ。
僕がこのまま自分の信念を貫き通して、世間から「餓鬼だ、畜生だ」と陰口を叩かれたとしても、明日の舞台で演じる役は「天人(てんにん)」なんだ。
いろんな連中が現れて、そいつらとばかり関わるようになったら、見た目はたとえ天人であっても、やっている芸は餓鬼そのものになってしまう。
餓鬼や畜生でも、それが純粋な「芸」ならまだいい。でも、そんなことをしていたら本当に恐ろしいのは、心が奈落の底へ真っ逆さまに落ちていってしまうことなんだよ!
僕は誇り高い能役者だ。だから今回だって、この土地にやってきたんだ。
もし僕がお謡の先生なんかだったら、相手の歓迎会や披露目どころか、
こっちから進んで顔を出して、ご挨拶にもあちこち回り、魚市場で知り合いのお悦さんに「鮒(ふな)をちょうだいよ」とおねだりするスキに、祝儀袋の十や十五はポケットにちゃっかり詰め込んで持ち帰り、目の病気(トラホーム)の治療費くらい、その場でパッと払ってみせるさ。どうだい、そんなふうに生きられたほうが楽なのかい?」
八郎は胸を締め付けるような思いで、隣に座る妹の雪代を見た。
「ねえ、きみ、僕の言いたいことが分かってくれたかい?」
しかし、お久という女性は、きょとんとした顔のままポカンとしていた。
「あんさんは、ほんまによく喋はるなあ」
まるで「向こうの山にいる三匹の猿」のなかの小猿にされたかのように、八郎はポカンと口を開けて固まってしまった。
自分勝手なことを……しかもお酒に酔った勢いで、ペラペラとたくさん喋りすぎてしまったのだ。
実のところ、親しい友達である私(語り手)でさえ彼の真意を完全に理解するのは難しい。ましてや、彼の人間性や複雑な境遇について、この女性たちには、私の分からない領域以上にちっとも分かっていなかったことだろうと察せられる。
「どうだい、きれいな奥さん――いかがですか、お姉さん、それにお悦さん」
八郎が遠慮なく再び箸を取ろうとしたのを見て、二人の女性は揃って箸をピタリと置いた。
お悦さんの方は、出された酒を一口飲み込むと、普段は一滴もアルコールを飲まない女性特有の、白く澄ました冷ややかな顔色で、突然、こう叫んだ。
「ニャーゴ!」
「こいつはダメだ、一本とられたな」
「おっ、小父さん、お客さんだよ!」
お母さんの真似をして、この子もまた実にすばしっこい!――ちょうどその時、お店の入り口に飾られた菊の花のまわりに、七、八人の人垣ができているのを、雪代はチラッと素早く見とがめた。
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