こうして八郎は橘の家を継ぐことになり、その大切な家名を決して恥じさせるようなことはありません。
世間の人たちは彼を呼び、「宗家(そうけ:本家)と全く同じ格だ」と称えているのです。
「わけがわからないね……。
まだ世の中にたった一人の自分(あんさん)がいるだとか、たった一人の妹がいるだとか言ってる!
その一人の妹ってやつが分かったなら、今すぐその一人の妹になって来いってんだ。
その、もじゃもじゃと生えた身内の手足を、残らず根元からたたき切ってやりたいくらいだよ。
本当に純粋(まこと)なものだけが好きなら、いっそ海の底の蝦蛄(しゃこ)だって大好きなさ。
六十五歳で十一人も子どもを生ませた親父だの、その子供だの、またその婿だのなんて連中を、私が一体どうして親しいと思えるかい? 懐かしく思えるものか、自分でよく考えてみるがいいさ!
――なんだって? 妹に免じて、顔くらい合わせてやれって? 煩いなあ……!
そんなものに免じなきゃならないような理由が一体どこにある? ただの妹じゃないか……。
……きょうだいは一つの身体だって? そんなの御免こうむるね!
血肉も骨も筋も、すべてが一つに溶け合うほど愛しいのは、心から可愛いと思うたった一人の人だけだ。
え? きょうだいは手のひらの五本の指と同じだって? 嘘を吐くんじゃない!
――私にとっては六本指さ、余計な骨がくっついた駢指(びんし:多指症)なんだよ!」
地方の町では、たとえ電力の供給が弱くても、こんな明るい電燈の下であえて口にするような言葉ではないでしょう。
しかし、お仏壇の燈明(とうみょう)の明かりだけが陰々と照らすその仏間で、八郎の声ははっきりと響いていました。
――座敷では、人間の顔の輪郭さえぼんやりと霞むほど、まるで蟹の脳味噌が再びぐつぐつと煮返るような、そんなむっとする熱気の中。
いつの間にか、「お久」という女性が、帰りしなに「ちょっとね」と言って八郎を呼び出し、奥へと連れ込んでいたらしいのです。
――
「おい、さっきの『六本指』発言は謝るよ。分かったかい?」
そう言い捨てて――飲みすぎて酔い潰れたのか、それとも酔いが覚めかけているのか――青白い顔をした八郎が、つかつかと部屋から出てきました。
そこには、ご飯に添えられた小皿の小さなおかずを(このあたりの習慣なのです)、自分の手に載せてお箸をつけていた雪代夫人がいました。
その姿を見ると、八郎はドスンとその場に座り込みました。
「何を食べてるんだい?」
「篠鰈(ささかれい)よ」
「ほう……」
と、のぞき込んでから、
「東京の柳鰈(やなぎがれい)かい――すらりと細いねえ。
食べているものまで、なんだか華奢(きゃしゃ)だなあ。
なあ、少しおくれよ、ひとくちちょうだいよ」
「まあ、いやらしい、先生ったら」
「誰が先生だい、いいからさあ、ちょーだいってば!」
小指の反った美しい白魚のような指が、赤い指環の光を映しながら、まるで消えそうなほどか弱いその身体を支えています。
そして、ほとんど歯に当たりもしないような小さな身を、あんぐりと口を開けて受け取り、むしゃむしゃと噛んだと思った次の瞬間――
ドタリと、そのすんなりした雪代の背中へ崩れ落ちてしまったのです!
空色の地に雪間の花が染められた帯のお太鼓と、梅の香りのように気高い細い襟足の隙間へと、八郎はもうやたらに顔を押し付け、そのままグッタリとなってしまいました。
「この襟足のところがね、三寸ばかり……お前さんに似て本当に美しいよ」
と、雪代の耳元でそう囁いたかと思うと、そのまま彼女の背中にどーんと倒れ込んで――
そのとき、八郎はポロポロと泣いていたのだそうです。
私は小さな料亭の小座敷で、その翌日の夜、雪代夫人から直接二人きりで聞いたのでした。
チーン。
どこかで小さくすすり泣くような声がすると、仏壇の鈴がチーンと鳴りました。
……お久という人が、あのすり減った足袋でトボトボと帰っていくのを、居合わせた台所からお悦が見送っていました。
彼女は、尖った銀杏返し(いちょうがえし:女性の髪型)の髪に簪(かんざし)をざっくりと挿し、肩掛け(ショール)も羽織らずに、冷たい首をうつむかせたまま――
雨上がりの夜道を、寒さで凍りつきそうになりながら、カタカタカタカタと寂しそうに帰っていくのでした。
……
七
その町には、大きな川が流れる大川通(おおかわどおり)という通りがありました。
川の流れそのものに沿っているわけではありません。
優しく穏やかな川面に面し、立派な大橋を正面に控え、遠くの峰や山々を右手に望むその場所。
橋のたもとには遊楽の街があり、水面にはカキを養殖する船が、景色を彩るかのようにロープで係留されています。
そのうえここは国道の要路でもあるため、大川通はいつも大変な賑わいを見せているのでした。この土地へ来て三日目の夜、九時半頃のことでした。
結い立てのきれいな円髷(まるまげ)にうす化粧をし、飾り気はないけれど黒い江戸褄(えずま)を着た、いなかっぺではなく上品な町家の奥さんのようにしゃんとしたお悦(えつ)さんと、私は急ぎ足で肩を並べ、瀬戸物屋の店先へとやってきました。
そこは、骨董品(こっとうひん)も一緒に並べられた、山に囲まれた町並みの、冬の夜空の下にひっそりと、しかしきらびやかな窓飾りが並ぶお店の前でした。
「……ありゃしないねえ。」
「ええ、ありませんね。」
わざわざ中を覗くまでもありません。
並んでいた中でもひときわ目立っていた、どっしりとして華やかな色の花瓶がワンセット、まだお店の人が飾り直していなかったのか、ぽっかりと丸く一尺ほどの穴があいたように空間が空いていたからです。
気が早いお悦さんは、特にそのことが気になっていたようで、すたすたと店に入っていきました。
「ごめんください。」
「へい、いらっしゃい。」
お店の主人が顔を出しました。
「お昼ごろ、お仲間の方といっしょに買った花瓶なんですけどね。かなり大きくてこわれやすいものですから、お店ですぐに荷造りしてもらうか、それとも一度、宿の方まで受け取りに来てもらうか……とにかく、もう一度お話しすることになっていたんですが……」
「はあ、いえ、それでしたらね。
まあ、奥さん、どうぞおかけください。旦那さんもどうぞ。
いらっしゃいましたよ、つい今しがた、さっきの旦那さんがね。」
「ええっ、来たんですって!?」
とお悦さんが私の顔を見て言いました。
「ひとりで? ……もっともひとりででしょうけれど、どんな格好をしていました?」
馬面(うまづら)の主人は、くわえていた煙管(きせる)をぽんと叩きました。
「ええ、それがですね、着物を普段着のままで、羽織も着ないで、足袋も履いていなかったようで、赤い鼻緒の草履を突っかけていらしたんです。……あの廊下なんかを歩くような格好でね。
何だか知りませんが、きれいな大きめの扇子を帯にぐっと差し込んで、せかせかやって来て、『持って行く!』って急に言うんです。
コメント