初級翻訳・卵塔場の天女 第16話

卵塔場の天女

もちろん、お代はもう払っていただいているんですが、それでも『風呂敷か何か包みましょうか』と言ったら、『すぐそこだ、すぐそこだからいい!』って……なんだか川端の料理屋ででもお酒を飲んできたようなご様子で、さっと自分で抱え込んだんですよ。それがかなり重いもんですから、花瓶の下に扇子をつっかえ棒にしてねえ……いやまったく、花瓶もりっぱなものでしたが、どっちがきれいかと思うくらい、その扇子もりっぱなものでしたよ。」

主人はそう言いながら、私たちをじろりじろりと怪しそうに見つめました。
……それもそのはず、お悦さんがこの辺りでは今でも使っている、一升入りの角樽(かどだる)を手に提げていたからです。

(――思えば、ここで初めて聞いたのが、きれいな扇子を持った――友だちだからこそ特にほめて言おう――あの白い手とともに舞台から消えた、橘八郎(たちばなはちろう)の最初の消息だったのでした――)

私は少し慌てていました。
昨日のごたごたの続きを話そうかという、この三日目の朝、またしてもお悦さんが私たちの宿泊先にやって来たのです。
またいつ昨日の幹事たちが大勢で押しかけてこないとも限らないので、早くここを出発しなければなりません。
支度をするためには、すぐに能舞台へ向かうのが決まりの道順なので、八郎は紋付きの着物を着ました。
その舞袴(まいばかま)をつける手際が、実に早いのです。
夜討ちのときの素早い支度(早具足)のようで、本来なら後ろに回って、膝でちょっと腰板を押さえてあげるのが、気配りのできるお悦の役目のはずでした(お悦は早着替えにかけては誰にも負けない自信があり、朝の四時半から髪結いに行ったと言っていました)。しかし、彼女もうっかり見とれていたのか、八郎が袴や羽織を着る姿を見るのは初めてだったのかもしれません。

途中、私の見物のために電車の窓から、今お話ししているこの大川通(おおかわどおり)で一度降りることにしました。
橋のたもとには、高い梢(こずえ)の向こうの山々が色とりどりの葉でパッチワークのように彩られ、朱色の五重塔がその間に見え隠れしています。枝を長く青い浅瀬の流れに垂らした、「雪女郎(ゆきじょろう)」と名付けられた柳の大きな木のそばを通り過ぎ、それから橋を渡っていきました。

私たちが向かったのは、明治維新の波にのって江戸を追われた、徳川家の末裔(まつえい)である能役者だったという、八郎の母方の祖父や伯父、叔父、そして祖母や伯父の妻、叔母たちが眠る、「寺路町(てらじまち)」という名前のお寺の大きなお墓でした。
――ちなみに、両親のお墓は東京にあります。

寺と寺の間には、まるで亡者(もうじゃ)の住処(すみか)へ石で裏から階段を掛けたかのような、苔(こけ)で滑りそうな落葉の小道がありました。
しかも藪の下で、老猫がもし化けたらまさにこれになりそうだなと思えるような、顔の皮がめくれて目は真っ赤、ひげもそのままで頬に深いシワがあり、古手拭(ふるてぬぐい)を頭にかぶった、まるでお化けの影法師のような、「穴の媼(おうな)」とか呼ばれるおばあさんがやっている小さな店がありました。
すでに季節は霜枯れ(しもがれ)ていて、秋の花野はすっかり幻のようになり、草花よりも日向(ひなた)の温もりが頼りになるような場所です。
軒先に吊るされた仏花(ぶっか)に、枯れかけた小菊を混ぜて、「仏様は五人分です」と八郎が言うと、五把(わ)の線香を買い足してくれました。
おばあさんが「あんやと、あんやと(ありがとう、ありがとう)」とお経のように呟きながら、おまけらしく硫黄のついた火口(ひくち)を束からパキッと剥ぎ取ってくれたとき、私はなんだか遠い記憶がよみがえるような、生まれる前の世界を思い出すような不思議な気持ちになりました。

お寺の門には、立ち並ぶもみじの木にぽかぽかと真っ赤な日が射し込んでいましたが、お墓の中は湿っていて薄暗い場所でした。
線香の煙が、あちこちに群がり生えた枯れ尾花(おばな)の間に流れていくとき、空からはまたぽつりぽつりと小雨が落ちてきました。

――すると、お寺の老和尚(おしょう)さんが、香の染み込んだ法衣(ほうい)をばさばさと音を立てさせながら、紫色の袈裟(けさ)を畳んだままひじに掛け、その両手で太い杖をしっかりと突っ張りながら、慣れた様子でカラスが鳴く木の下へとやってきました。
そしてお寺の男の人が、和尚さんの後ろから大きな番傘をさしかけたのでした。

「大僧正(だいそうじょう)のような立派な見識じゃのう、ははは。」」
と、のどを詰まらせるようにして笑い、
「もう、足も腰もうまく動かなくてね、傘をさすのも杖がわりというわけさ。
気弱になったものだ、ろれつもうまく回らないし、ずいぶん大げさな嘘をついてしまったからね、ははは。」
そう言って笑った老和尚は、中山派の大行者であり、若い頃はたいそう有名な美しいお坊さんだったと聞いています。
谷あいの寺々にこだまする、お経の太鼓はいくつあることでしょう。
そのすべてが、この老和尚の大きなお弟子さんたちなのだそうです。
「よくお参りじゃ――紅屋の奥さん……先ほどはまた、台所の方へご丁寧な心づけをいただきまして。
おや、そのお袴を着たご主人(八郎のことですね)、前にある黒い瓶(かめ)のことじゃがのう。
あれは東海道の横浜にいた、葛原の妹娘のお骨を入れて――中山道の上田にいる姉娘がのう、去年お墓参りに見えたときの一具なんじゃが、お寺で新しくお墓を掘ったときじゃよ。
わしも立ち会って考えたんじゃが、祖父も祖母も、親も子どもも姉妹も、海や山をはさんで百里も二百里も離れて、ばらばらになっていた者同士が、一つの土に溶け合うというのに、そこに瀬戸物の破片などが混じっていたら、さぞかし体が痛むだろうってな。
ご飯の中にジャリっと砂利を噛んだようになってしまうだろうと思ってねえ、だからといって捨てるのももったいない……誰かお参りに来たときには、お墓にお供えする花を挿してもいいだろうと思って、石塔の前に置いておいたのじゃよ。
さあ、さあ、どうぞご供養をしておやりなさい。
どの人も、みな古くからの馴染みじゃからな。」
と、和尚さんはホロリと涙ぐみました。
それを聞く私たちの袖も、まるで時雨(しぐれ)のように涙で濡れていきました。
……

「――横浜のね、ええ、叔母の娘で、二人姉妹なんですが……叔母の娘のほうは面白いというか、叔父のほうなんて僕が顔も覚えないうちに今の墓に眠っているんですがね。
妹のほうは――さっき来る途中で通り過ぎたでしょう、あの遊廓で芸妓をしていて、この土地の旦那さんに身請けされて、かなり立派な商人の奥さんになったんです。
それが、何か商売の計画があって地方を回ったものの、横浜へ出て失敗してしまいましてね。
亭主も亡くなって、それからは自分で芸事を教えていたんです。
お茶だとか、生け花だとか、それよりも、小鼓(こづづみ)を打つのが得意で、そっちの方が流行ったそうなんですよ。
四五年前に、東京の神田にある僕の家へ訪ねて来たときなんか、小鼓までわざわざ持ってきて、『八郎さん、一調(いっちょう:一緒に演奏すること)やりましょうよ。』なんて言うんです。

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