「実に不思議だ。そして奇妙だ。それに、たしかに滑稽でもあるな」と卓一は思った。
滑稽だとは思いつつも、そうした意識を突き破って、彼は「この人となら結婚しても悔いはない」という確信を抱き始めていた。
この確信は、自分でもあまりに唐突だと感じた。
澄江をまるで運命の女性だと思い込ませ、自分自身を確信させようと焦り抜いているような、そわそわと落ち着きのない自分がそこにいる。
卓一は冷え切った火鉢に火をおこそうと、何度も紙を燃やしながら、もっと自分を落ち着かせて、もっと深い、本当の自分の心を探り当てようとしていた。
部屋は煙でいっぱいになる。
やがて火はなんとかつきかけたのだが、頭の方はどうしても思考が奥へ入っていかない。
それなのに、唐突な確信だけが、まるで自分のすべてであるかのような落ち着きを見せて、無性にゆったりと広がっていく。
澄江が火鉢のそばへ近づいてきた。
「私がやるわ」澄江は火箸を受け取ると、火をいじり始めた。
澄江も考えがまとまらず、困り果てて、ぼんやりとしているように見える。
澄江が火鉢のそばへ来たので、卓一は自然に彼女のそばを離れ、火鉢からも離れて、立ち上がると椅子に腰を下ろしてしまっていた。
「私ね、満洲国へ行くのよ」
「いつ」
「二週間ぐらいのうちに」
「どうして」
「行ってしまうだけよ」
東京へ行ってしまうという由子の言葉と、同じような響きである。
しかし卓一は、由子の時と同じように冷たく聞き流すことはできなかった。
自分を愛しているという一つの表現なのだろう、と思う。
そして、もし本当にそういう意味なのだとすれば、それは澄江だけの気持ちではない。
自分だって……卓一はそう思うのだ。
俺は澄江を愛している。
澄江の言葉に引きずられて思い当たったわけではなく、澄江が自分を思うよりも、もっと深く愛していたのだ。
そして、そんな心のうちを、どんな言葉で表現したらいいのだろうか。
お前が俺を愛するよりも、俺のほうがお前を愛していたのだ、というこの気持ちを。
――卓一の頭から、内省する力が失われていたわけではない。
結局、あらゆる内省は「無視される」ことによって圧倒され、空回りするばかりだった。
「私ね」澄江は火鉢のそばを離れた。
そらぞらしく口を閉ざして立ち上がると、テーブルを挟んで卓一の正面に腰を下ろした。
「私ね。満洲国へ行ったら、もう帰ってこないわ。新京に叔父さんの家があるの。もしかすると……」
「…………」
「ふふ」澄江は笑った。
「なんでもないのよ。私ね、そんなことを言うためにここへ来たんじゃないのよ」
卓一は澄江の言葉が途切れるたびに、今度こそはと言い出そうとして、たった一つの言葉にこだわり続けていた。
卓一はついに、それを言い切った。
「僕と結婚してくれないか」と。
その瞬間、澄江の瞳に憎しみの冷たい光が凝結した。
そして澄江は突き刺すように卓一の瞳を見たが、やがて目を閉じて、椅子の背に軽く頭をもたせかけ、微動だにしなくなった。
長い、長い時間だった。
澄江はやがて目を開けた。
憎しみの光はもう消えていた。
諦めきったような、悲しい冷たさが浮かんでいた。
「四年間……」と澄江は小さくつぶやいた。
そして卓一をちらと見て「四年間よ」と繰り返すと、澄江はまるで自分自身をあざ笑うような、冷たい笑みを顔に浮かべたのだ。
やがて澄江は椅子から立ち上がった。澄江は卓一の方へ背を向けたまま、火鉢の前に静かにしゃがみ込みました。まるで寒さのために凍りついてしまったかのように、ピクリとも動きません。
泣いているのだろうか、と卓一は思いました。
やがて澄江が立ち上がりました。乱れた服装を整えてから、くるりと振り返り、椅子に腰を下ろしました。突然、澄江は青ざめた顔を上げ、厳しい問い詰めるような口調で卓一に言いました。
「どうしてそれを、四年前と言ってくれなかったの」
そして、さらに激しくヒステリックな声で、同じ言葉を繰り返しました。
「どうして言ってくれなかったのよ。四年前のあの時に」
恨みと怒りと厳しい問い詰めの表情は、しかし、ふっと崩れてしまいました。そして再び、すべてを諦めきった悲しみに変わりました。彼女は弱々しい声でつぶやきました。
「もう遅いわ。もう遅いのよ。遅すぎる。遅すぎるわ。だって、四年間も経ってしまったんだもの」
その悲しみの痛々しげな様子を見て、卓一はあまりの戸惑いに、思わず絶望的なつぶやきを漏らしてしまいました。
「もう、遅すぎたのか」
卓一の思考は、まるで子供のように単純になっていました。澄江の言葉をそのままの意味でしか受け取ることができず、自分のそんな幼稚さを憎みながらも、どうすることもできない状態でした。
澄江はやがて、ようやくかすかな笑みを浮かべました。いいえ、そうではないのよ、と言うように首を振ってみせたのです。
「それでは、結婚できるのか?」
澄江はしばらく間を置いてから、こくりと頷きました。
卓一の感動は、そのとき最高潮に達していました。これまで静かな景色を眺めたり、雄大な自然に触れたりして、それなりに美しさを感じ、少しばかり悲しみが晴れることはあっても、悩みの根源からすべてをさらっていくような感動を覚えたことなど、一度もありませんでした。
そもそも、風景の美しさなどたかが知れています。たまたま水面に広がる波紋のように、表面的な悲しみの波をなだめる程度のもので、深い苦悩の奥底まで届くはずがありません。
それに比べれば、人間関係の世界は、どれほど日常的で表面的なものであっても、風景よりはいくらか深く、複雑に、苦悩の襞(ひだ)の奥にまで触れてくるものです。そしてもし、人間の悩みの根源から根こそぎ揺さぶるような感動の世界があるとするなら、それは間違いなく人間関係の中にしかないのだと、卓一は常々信じていました。
けれども、大自然に触れるたびにいつも退屈し、慰められることがなかったのと同じように、これまで彼が経験してきた人間関係のパノラマも、常に陳腐で魅力に欠けるものでした。楽しさもなく、感動もなく、いつもただ退屈だったのです。
「なんて美しさなんだろう」
卓一は感動のあまり、思わず口に出しそうになりました。ちっぽけな一人の人間に、これほどまでの絶対的な美しさが秘められているなんて、かつて信じることができただろうか。
いいえ、断じて違います。そんなことがあり得ると予想はできても、実際に目の当たりにして信じることなど、できるはずがありませんでした。
「何が、このちっぽけな一人の人間を、こんなにも美しくしているのだろう」
卓一は心の中でため息をつきました。
「そして俺は? 澄江の美しさに引きずられて、俺も今はいくらか美しく振る舞えているのだろうか。少なくとも、美しく、そして高貴に振る舞わなければならないという責任を感じる……」
生まれて初めての経験だと、卓一は心の中で叫びました。この世に存在する最も美しいものを、初めて認識したのです。
最も美しく、最も高貴なもの。すべてにおいて頂点に立つ唯一無二の存在を、私たちの頭はとても簡単に予想し、描き、想像することができます。
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