とはいえ、どんなに人の好い男でも、自分の妻を他人に奪われて腹を立てない者はいません。多助も怒りのあまり、いっそこの家を飛び出してしまおうかとも考えました。
しかし、「いや、自分がこの家を出れば、原丹治親子が間違いなくこの塩原の家に乗り込んでくるだろう。侍に百姓仕事など務まるはずがないから、塩原の家は必ず潰れてしまうに違いない」と思い直しました。八歳の時から引き取られ、育ててくれた大恩ある親父様に義理が立ちません。「石の上にも三年」という言葉もある通り、ここで優しく孝行を尽くせば、いつかは母の心も入れ替わり、丹治親子を寄せ付けなくなるかもしれない。そう願い、母とおえいが非道に多助をいじめても恨み返すことはせず、ひたすら孝行を続けました。しかし、そうすればするほど二人はつけ上がり、その年の九月になると、ますます多助を憎むようになったのです。
多助も色白で小柄な、穏やかで善良な男ですが、田舎で馬稼ぎをしているため、どうしても身なりは質素で垢抜けないものです。家にはめったに居らず、月に六度ほどは馬を引いて外を回っているため、太陽に焼かれて真っ黒になり、日向臭いほどです。一方、丹三郎は江戸育ちの侍で、男ぶりも良く小綺麗であるため、おかめ母子はおえいともども、ますます多助を疎ましく思い、邪険に扱うようになりました。
丸一年もの間、同じ布団で寝ることも許されず、冷たくあしらわれても、多助は辛い思いをじっと堪えて馬を引いて出かけました。誰に相談することもできず、泣きながら馬を引いて歩く姿から、世間の人は多助を「泣き多助」とあだ名するほどでした。それでもおかめ母子は増長し、多助を家から追い出そうと画策していました。
ちょうど八月一日のことです。丹治親子が多助の家へやって来ました。この機に多助を亡き者にしようと考えたおかめは、丹治に向かってこう言いました。
おかめ「私もまあ、こうしてお前さんにいつも無理なことをお願いしてばかりで……。お前様もお非番の時には度々来てくださいますが、お役人様ゆえにお泊まりになることもできず、心苦しい限りです。どうかして月に五、六度はお泊まりいただきたいと思っておりますが、世間の手前、多助の目もありますので、思うようには参りません。本当に、この頃は多助のやつ、妙に悪らしくなってきて困るんですよ」
丹治「こうやって父子で度々遊びに来るのは良いが、多助も馬鹿な男ではないから、とっくに怪しいと感づいているだろう。来るたびに嫌な顔一つせず、『旦那様、よくいらっしゃいました。お母さん、ご馳走をしてあげてくださいよ』と、ヘイヘイ言いながら畳に頭を擦り付けるようにされるので、なんだか来にくくてな。そうだろう、丹三郎」
丹三郎「毎度、お父様もそうおっしゃっていますよね」
おかめ「何をおっしゃいますやら。あいつだって私の子ですから、私の気に入らなければ叩き出してもいいのですが、そうもいきませんからね。何か良い手立てはないものかと考えているのですが、あなたもよく心に留めておいてくださいよ」
そう話をしているところへ、奥からおえいが手紙を持って出てまいりました。おかめは、丹治親子に向かって言いました。
「旦那様方がせっかくお二人でいらしているのに、何をしているんですか。さあ、こちらへお座りなさいな」
そこへおえいが奥から出てきて、おかめの前に一枚の手紙を差し出しました。
「おや、旦那様、よくいらっしゃいました。あのね、お母さん。多助さんが今朝、帯を締める時に袂(たもと)からこれが落ちましたよ。分家の娘のお作さんから多助さんに届いたラブレターなんです。まあ、バカバカしいことが書いてあるんですよ」
おかめはニヤリとして言いました。
「おやまあ、年頃になるとおかしなもんだねえ。多助がいいとか何とか言って惚れているそうだけど、さあ旦那、この手紙をご覧なさいよ」
丹治は「どれどれ」と言いながらその手紙を取り上げ、読み上げました。
「なるほど。小さい頃から機織りや糸繰りばかりさせて、字の練習もさせなかったから、字が書けないのは無理もないが……俗にいう『貧乏人の盗み』に『恋の歌』か。妙だな。鉄釘を折ったような字でポツポツ書いてあるな。ええと……『一筆書きしるし』……書きしるしとは妙だな。『お前様にはおえいどんという、うぶな身分の方がいらっしゃるから……』おえいどんの『どん』は、女房の間違いだろうな。『わしらが深く思いやしても駄目なことだと思いやんすが、お前様の顔を一日見ねえば、まるで百日も見ねえようでがんすよ』……『見ねえようでがんすよ』はおかしいな。『それに親父が婿を取れと云いやんすから、厭(いや)でなりやしねえよ。明日は日待ちだから、蕎麦を打つから食いに来ておくんなんしよ。めでた……』フフフ、妙なところに『目出度(めでた)』なんて書いたもんだな。これは妙だ。最後に名前が書いてある。『多助どのへ、お作』……アハハハ、これではまるで付け文(ラブレター)そのものだな」
丹治が手紙を読み終えると、おかめはこれを好機と捉えました。この手紙を分家に突きつければ、堅物で有名な分家の爺さんなら多助を追い出すに違いない――そう確信したおかめは、丹治親子と「こうして追い出そう、ああして追い出そう」とひそひそ相談を始めました。
その時、何も知らずに「仏の多助」と呼ばれるほど正直な多助が帰ってきました。勝手口から上がってきた多助は、丁寧に挨拶をしました。
「旦那さん、いらっしゃいませ。先日は私が留守にしていて申し訳ありませんでした。いつもろくなおもてなしもできず、恥ずかしい限りです。今日はまた、よくお越しくださいました」
丹治は少しバツが悪そうに答えました。
「おお、多助か。毎度来て厄介になっていて済まないな。他に遊び相手もいないものだから、ついこうして来るのだが……お前も小さい時から田舎暮らしになったとはいえ、江戸生まれだそうだな。こうやって江戸っ子同士で集まると、なんだか頼もしいものだ。毎度いろいろとご馳走になって申し訳ない。決して気を使わないでくれよ」
多助は「何もお出しできるものはありませんが」と断りつつ、おかめに言いました。
「お母さん、どうか何か旨い物を出して、ご馳走をしてあげてください」
そう言って表へ出ようとしたところ、おかめが鋭く呼び止めました。
「出て行っちゃいけないよ。少し話があるから待ちねえ。お前は本当に呆れたひどい奴だよ。このところ家に寄り付かないと思ったら、分家のお作と密通しているんだってね」
多助は驚いて聞き返しました。
「へえ、なんのことでしょう?」
おかめは畳み掛けます。
「とぼけんじゃないよ。お作とくっついているんだろう!」
多助は困惑しきりです。
「こりゃあ、びっくりしました。お母さん、誰がそんなことを言ったんですか? 分家の娘と浮気なんてした覚えは全くありませんよ」
おかめは勝ち誇ったように言いました。
「おいおい、いくら口先でシラを切っても、書いたものが証拠だよ。これでも嘘だと言うのかい? これを見な!」
そう言って手紙を多助の前に投げつけました。多助はそれを手に取り、じっと見つめました。
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