初級翻訳・夢の谷 第8話

夢の谷

なぜなら、自分のことは自分でなんとかできるから。さっきも言った通り、完璧な生き物なら、政府なんて全く必要ないんです」

「それじゃあお前は、火星人が完璧な生き物だとでも言うのか?」
隊長が厳しい目で尋ねました。

「まさか、全然そんなことはありません。でも、彼らは人間よりずっと長い時間をかけて進化してきた。少なくとも社会の仕組みとしては、リーダーがいなくても大丈夫なレベルにまで達しているんです。みんなで一緒に働く、ただそれだけなんですよ」

ジャービスは一息つくと、また話を続けました。
「不思議だと思いませんか? まるで大自然が、2つの星で別々の実験をしたみたいです。1つは地球。ここで試されたのは、感情が豊かで、お互いに競い合う、ごちゃ混ぜの世界の生き物。そしてもう1つは火星。ここで試されたのは、おだやかで、みんなと仲良くする生き物。水もなくてカラカラに乾いた、厳しい世界です。火星では、何をするにもみんなで協力します。どうしてかっていうと、地球でいろんなトラブルの原因になるような、そんな要素すらないからですよ。つまり、オスとメスという性の違いがね」

「えっ、どういうことだ?」

「そうなんです。トウィールたちは、あの泥の街にいたビヤ樽型の怪獣たちとまったく同じ方法で子どもを増やすんです。2人の大人の間に、3人目の子どもが育つんですよ。リロイの説を裏付けるもう一つの証拠として、火星の生命は動物でも植物でもないんです。おまけに、トウィールはとても丁寧におもてなしをしてくれて、くちばしをぺこりと下げたり、羽毛をパタパタと舞わせたりして、リロイもすっかり納得していました」

「ウイ(その通り)、本当のことです」
と、生物学者のリロイもうなずきました。

ハリソン隊長は、まだなんだか納得がいかない様子でぶつぶつと言いました。
「それにしても、リーダーがいない社会だなんてな。火星みたいな、半分死にかけた小さな星によくそんな奇妙な連中が現れたもんだよ」

ジャービスはニカッと笑って、また語り始めました。
「おそらく何百年も経てば、地球でも『リーダーなしでやっていくにはどうすればいいか』って心配することになるでしょうね。……そのあと、俺たちはあの薄暗くて寂しい街を歩き回って、いろんなものを写真に撮りました。それから……」

ここでジャービスは、ふっと言葉を止めて、ブルッと身震いをしました。
「俺は、宇宙船から見つけておいた、あの怪しい『谷』をこの目で見てやろうと思ったんだ。なぜだか分からないけれど、どうしても気になってね。だけど、トウィールをその谷の方向へ連れて行こうとすると、やつはギャーギャーと金切り声をあげて大騒ぎするんだ。俺は、やつの頭がおかしくなっちゃったのかと思ったよ」

ハリソン隊長がからかうように言いました。
「おかしくなったっていいじゃないか」

「だから俺は、やつを置いて出発したんだ。トウィールは悲しそうな声で『ノー、ノー、ティック(だめだ、だめだ、ジャービス)!』と叫んでいたよ。でも、不思議なことが起きたんだ。やつは俺たちの頭の上を飛び越えて先回りすると、地面にくちばしを突き刺して、おかしなジェスチャーを十数回も繰り返した。それでも俺たちが進み続けると、ついに諦めたように、しょんぼりと後ろをついてきたんだ。

その谷は、街から南東へ3キロ(2マイル)もない場所にあった。トウィールなら、得意の大ジャンプを20回もすれば着いてしまう距離だ。だけどやつはわざと遅れて、ぐずぐずしながら、街の方を振り返っては『ノー、ノー、ノー!』と叫んでいた。それから、空高く飛び上がったかと思うと、俺たちの目の前の地面に勢いよくくちばしを突き立てたんだ。ぶつかりそうになって、避けて歩かなければならないほどだった。もちろん、これまでもやつの奇妙なダンスはたくさん見ていたから慣れてはいたけれど、あの谷にだけは俺たちを近づけたくないんだってことは、誰の目にも明らかだったよ」

「どうして近づけたくなかったんだ?」
ハリソン隊長が尋ねました。

ジャービスは、少し体を震わせながら答えました。
「隊長、さっき俺たちに『どうしてそんなボロボロの、浮浪者みたいな格好で戻ってきたんだ』って聞きましたよね。その理由が、これから分かりますよ。俺たちが低い岩の丘に向かって歩いていって、ようやくその丘のてっぺんにたどり着いたとき、トウィールがこう言ったんです。

『ノーブリート、ティック、ノーブリート(行っちゃだめだ、ジャービス、行っちゃだめだ)』ってね」そう、この言葉をトウィールが使ったのは、あのカチコチのシリコン(珪素)怪獣に出会ったときや、ファンシーロング(あのきれいな鳥のような生き物)の幻の姿を見たときだったんだ。

僕たちをワナにはめようとした『夢怪獣(ゆめかいじゅう)』は、本物の生き物じゃなかった。

そのことは覚えていたけれど、そのときは特に気に留めていなかったんだ。

すると、そのすぐあとにトウィールがこう言ったんだ。
「アナタ・1・1・2、ヤツ・1・1・2」ってね。

そのとき、僕にもなんとなく意味が分かりかけてきた。

トウィールがこの言葉を使ったのは、あの夢怪獣のことを説明するためだったんだ。

「僕が考えていることを、夢怪獣も同じように考えている」っていう意味だったのさ。

夢怪獣が、獲物の「これが欲しい!」っていう強い気持ち(欲望)を利用して、釣り上げるようにだまし取るんだってことを教えてくれていたんだね。

そこで僕は、一緒にいたリロイに「気をつけろ!」と警告した。

あらかじめ注意して、何が起きるか予想していれば、夢怪獣だって怖くないはずだ――僕はそう思っていたんだ。

だけど、それは大間違いだったよ。

僕たちが丘のてっぺんに着いたとき、トウィールは頭をぐるっとひねった。足は前を向いているのに、目だけは後ろを向いているんだ。まるで、これから見る谷の景色が怖くてたまらない、とでもいうようにね。

リロイと僕は、丘の上からその谷を見下ろした。

最初は、このあたりと何も変わらない、ただの灰色の荒れ地に見えた。

ずっと遠くの南の端には、ピカピカと輝く南極の氷(南極冠)が見えている。

でも、そう見えたのは、ほんの一瞬のことだったんだ。

次の瞬間、目の前に「天国」が現れたんだ――!

「なんだって!?」と、ハリソン隊長が叫びました。

ジャービスは、隣にいるリロイの方を振り返って尋ねました。
「リロイ、君ならこれを説明できるかい?」

すると、生物学者のリロイは自信なさそうに手を振って、こうささやいました。
「セ・アンポシーブル(ありえない)。僕には説明できません。ただただ、あ然とするばかりです」

ジャービスもつぶやくように言いました。
「僕だってあ然としたさ。どう説明すればいいのか、さっぱり分からないんだ。僕はただの化学者であって、詩人じゃないからね。『天国』という言葉よりふさわしい表現が思いつかない。だけど、それだって全然正確じゃないんだ。そこは、天国と地獄が一緒に暮らしているような場所だったからね」

「もっと分かりやすく話しなさい!」と、ハリソン隊長が怒鳴りました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました