初級翻訳・大川の水 第2話

大川の水

かといって、潮の満ち引きを感じない上流の川の水は、エメラルドのように軽すぎて、どこか薄っぺらに光りすぎています。
その点、淡水と海水が混じり合う大河の水は、冷たい青色の中に、濁った黄色のあたたかさが溶け合っていて、どこか人間味のある親しみやすさ、まるで生きているかのような懐かしさを感じさせてくれるのです。

とくに大川は、赤茶けた粘土の多い関東平野を流れ抜けて、「東京」という大都会を静かに流れているだけに、濁って、細かな波紋を立て、気難しいおじいさんのようにぶつぶつとつぶやく水の色が、とても落ち着いていて、人なつっこい、心に寄り添うような優しさを持っているのです。
都会を流れていても、海という大きな神秘と絶えず繋がっているせいか、町中の小さな川のように水が淀んで暗くなることはありません。
眠ることなく、絶えず生きて動いている。
そして、その流れの先は、始まりも終わりもない「永遠」という不思議な世界へ続いているような気がするのです。

吾妻橋、厩橋、両国橋の間で、香油のように青い水が、大きな橋の土台の石やレンガをひたして流れていく様子は、本当にうれしくなるほど美しいものです。
岸に近い船宿の白い行灯(あんどん)を映し、銀色の葉を裏返して揺れる柳を映し、また水門にさえぎられては、三味線の音がぬるむ昼下がりに、紅芙蓉(べにふよう)の花にため息をつきながら、気の弱いアヒルの羽に邪魔され、人けのない料理屋の裏を静かに光りながら流れていく水にも、その重々しい色の中に、言葉では言い表せないほどの温かさが隠されていました。

たとえ両国橋から新大橋、永代橋と川口に近づくにつれて、川の水が潮の深い藍色を強め、騒音と煙にまみれた空気の下で、ブリキのようにギラギラと白くただれた目を光らせて、石炭を積んだ船やペンキの剥げた古い船をものうげに揺らしていたとしても、自然の呼吸と人間の呼吸が混ざり合った、都会の水のあたたかさは、そう簡単には消えません。

とくに日が暮れるころ、川面に立ち込める湯気と、しだいに暗くなる夕空の薄明かりは、この大川の水を、たとえようもないほど微妙で美しい色合いに染め上げます。
ぼくはひとり、渡し船のヘリに肘をついて、霧が降り始めた夕暮れの川面をなんとなく見つめながら、その暗緑色の水の向こう、暗い家々の屋根の上に大きな赤い月が昇るのを見て、思わず涙を流したことがあります。あの時の気持ちは、きっと一生忘れることはないでしょう。

「すべての町には、その町特有のにおいがある。フィレンツェのにおいは、アイリスの白い花と、ほこりと、霧と、古い絵画のニスのにおいである」(メレジュコフスキー)
もしだれかがぼくに「東京のにおいは?」と尋ねたら、ぼくは迷うことなく、こう答えるでしょう。
「それは、大川の水のにおいです」と。においだけではありません。
大川の水の色、そしてその水の音こそが、ぼくが愛する「東京」そのものの色であり、声でなければならないのです。
ぼくはこの大川があるからこそ「東京」を愛し、そして「東京」があるからこそ、この街での暮らしを心から愛しているのです。
(一九一二・一)

その後、あの「一の橋の渡し」もなくなってしまったと聞きました。
「御蔵橋の渡し」が消えてしまうのも、もうそれほど遠い未来のことではないのでしょう。

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