はじめのうちは、橘(たちばな)もなんだか嬉しかったのです。
なにごともない、ただ子どもっぽかった日々とちがって、一日一日が増えていくような気がする毎日が、これまでの人生とくらべて、すっかり自分のために用意されているように感じられたからです。そして、今日もちゃんと「生きている一日」として迎えることができました。
一日というものが、こんなにもハッキリと、自分とは無関係なんかではなく、ちゃんと自分のこととして存在している――それはまるで、大きな広い世界へとパーッと突き抜けて出たような解放感でした。
夕方の空の色に、藍色の絵の具がだんだんまじっていくような、少し肌寒い早春の夕暮れどきには、決まって二人の若者がどこからともなくやって来ました。
彼らは、やっと小枝にツヤとハリを見せはじめた古い梅の木の近くに立つのです。着ているのは、草花の模様がしのばせる美しい狩衣(かりぎぬ)に、足元には指貫(ゆきぬき)の袴(はかま)。烏帽子(えぼし)の先が梅の枝にスレスレと触れるほどの位置でした。
二人はどこか遠慮深そうな様子ではありましたが、しかしその目の光はとても鋭く、お互いに「自分がどんな想いを伝えに来ているのか」を相手はもうとっくに見抜いているんだと分かっているような、激しい顔つきをしていました。
一人は西側の土塀のそばにじっと佇み、もう一人は東の方角にある角の土塀の影に立っていました。
ある日は一人がクチナシの実のような山梔子(くチナし)色の狩衣を着ていれば、もう一人はそれとおそろいのように折り目正しい山吹色の狩衣を着ています。
次の日の夕方には、一人が蘇芳(すおう)の濃い赤紫色の衣をきてくれば、もう一人の若者はそのまた次の日の夕方には、藤色とも紫苑(しおん)色ともつかない上品な色の衣をまとって現れ、お互いに相手のセンスに負けまいと競い合っていました。
またある時には、まるで少年が着るような薄い色の重ね着をチラリと見せるオシャレをすると、次の日の夕方には、もう一人の男もそれによく似た衣を身にまとってやって来るのでした。
一人がなよやかで気高い香りを届けようと女房たちに頼み込めば、もう一人は七種香(ななくさこう)というとても高価なお香をたずさえて、「これを橘の君に差し上げてほしい」と申し出るのでした。
和泉の山奥で採れた立派な百合の根を持参する男がいれば、べつの男は津の国(今の大阪あたり)から、鮮やかな紅色の鯛の折り詰めを自分の召使いに担がせて差し出させました。
こうして通ってくる一人は、津の国の茅原(ちはら)という男でした。
そしてもう一人は、和泉に父親を持つ猟師の青年でした。
流行の最先端をつくし、きらびやかさを極めた平安朝の夕暮れは、ただ青みがかったというよりも、むしろ濃い紫をじっくりと溶かし分けたような美しい色彩でした。
土塀だけが白っぽく浮かび上がる橘の大きなお屋敷に向かって、彼女に逢いたいと願う二人の男の声が響く中、夕方の雲はまるでボロ布になった錦のように、きらきらと輝きながら沈んでいくのでした。
「今宵もまた、いらしていらっしゃいますか?」
橘は夜になると決まって、お世話をしてくれる女房にこう尋ね、ほんのり眉をひらくような美しい笑みを心の中で思い浮かべるのでした。
「東寄りに一人のお方、そして西寄りの土塀のかげにもう一人のお方がいらっしゃっております」
「でお召し物は?」
「一人は蘇芳色、もう一人は紫苑色の、おそろいのような素敵なお召し物にございます。そして、ただひと目だけでもお目にかかりたいとお互いに申しておられます。どうか、ひと目だけでもお会いになってあげてくださいませ」
「片方のお方にお会いして、もう片方のお方にお会いしないというわけにはいきません。しっかりとお断りするように言ってちょうだい」
「それも、今となってはどうやっても聞き入れていただけそうにありません」
女房たちも、もうお手上げ状態でした。
どんなに冷たく突っぱねても、二人の若者はそれにめげることなく、夕暮れとともにやって来るのをやめることはなかったのです。
「あなた様が直接、直接おっしゃってみてはいかがでございましょうか?」
「この私が、じかに……?」
「そうしていただくより他に、あの二人を帰らせる方法はありません」
けれど、橘にはそんな大胆なことはとてもできませんでした。
顔を見せるどころか、橘が門の近くに出るだけでも、二人の心についてしまった傷はますます深くなってしまうに違いなかったからです。
それに、もしも橘の前から、ある日突然二人が来なくなってしまったとしたら――これまでの毎日とくらべて、自分はこの先どうやって暮らしていけばいいのか。考えただけでも、どこに向かえばいいのか分からない、底知れぬ寂しさが襲ってきたのです。
橘ははじめの頃、池のほとりに毎日二本ずつのアヤメの花を移し替えて植えては、「これは蘇芳の君、これは紫苑の君」というふうに、誰にも言わず心の中でその日その日を彼らに見立てて過ごしていました。
しかし女房たちは、「そこまでお気持ちが傾いてしまうくらいなら、いっそお会いになっておやりになればいいのです。そうすれば若者たちも、きっとあきらめがつくでしょうに」と言うのでした。
それでも橘は、心で受け止めるものだけで十分、あの二人からはそれ以外何ももらわないでおこう、そう心に決めていました。
アヤメの花は池のほとりをすっかり囲み、もはや新しく植えようとしても、池の南側のフチには一芽のアヤメすら残す隙間もないほど、ぎっしりと植え替えられてしまいました。
アヤメの数は、二人の男が通ってきた日数と同じ数になり、株の分かれ目には小さな莢(さや)のような蕾の準備が見え、鮮やかな緑の葉がすくすくと伸び上がっていました。
数えてみれば七十本以上にもなる芽立ちの数は、津の国の人と和泉の国の人が通い詰めた日数をそのまま数えているかのようでした。
橘は、どちらの男性を愛そうかと考える暇もありませんでした。なぜなら二人はいつも同じ夕方の時刻やって来て、同じ時刻に帰っていったからです。だから橘は、「もしかしたら、同じ人間が二人分に分かれてやって来ているんじゃないかしら」と思うほどでした。
立ち居振る舞いの静けさもそっくりなら、一人がゴホッと咳をすれば、少し間を置いてもう一人が同じように咳をする――顔立ちも、これほど似ている人が世の中にいるだろうかと思われるほどでした。青年真っ盛りのような、ハキハキとした頬や鼻には見事なハリがあり、少し頑固そうなくらいおでこの明るい広さまでそっくりでした。
事情を知らない人が見たら、まちがいなく兄弟だと思ったでしょう。
橘には、どちらか一方だけを切り離して考えることなど到底できませんでしたし、どちらが優れているとも思えなかったのです。こんなふうに通ってくる一人の男性につけば、あとの一人はどうなってしまうのだろう――橘はそんな心配は少しもせず、二人のどちらに対しても、返事の歌を詠んであげることはありませんでした。
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