少女もようやく、宣教師が笑った理由に気づいたのでしょうか。今は少しすねたような様子で、わざと足をぶらぶらさせています。
「あなたはきっと、賢い奥さんに、そして優しいお母さんになることでしょう。ではお嬢さん、さようなら。私が降りる場所に着きましたから。では……」
宣教師は、先ほどと同じように乗客たちの顔をぐるりと見渡しました。自動車は、ちょうど人通りの多い尾張町の交差点で止まりました。
「では皆さん、さようなら」
数時間後、保吉は尾張町にあるバラック建てのカフェの隅で、この小さな出来事を思い出していました。
あの太った宣教師は、電灯がともり始めた今ごろ、何をしているだろうか。キリストと同じ誕生日を迎えた少女は、夕食の食卓で父や母に、今朝の出来事を話しているかもしれない。
保吉もまた二十年前には、世の中の苦労を知らない少女のように、あるいは無邪気な問答の前に苦労を忘れていた宣教師のように、小さな幸せを持っていた。大徳院の縁日でぶどう餅を買ったのも、あの頃のことだ。二州楼の大広間で活動写真を見たのも、懐かしい思い出だ。
「本所深川は、まだ灰の山ですな」
「へえ、そうですかねえ。ところで、吉原はどうなったんでしょう?」
「吉原はどうなったか……浅草には最近、お姫様のような遊女が現れるという話ですよ」
隣のテーブルでは、商人が二人、そんな会話を続けています。
けれど、そんなことはどうでもいい。カフェの中央にあるクリスマスツリーには、綿をまぶした枝にサンタクロースの人形や銀色の星が飾られています。ガス暖炉の炎が、その木の幹を赤々と照らしているようです。今日はめでたいクリスマス。「世界中がお祝いするお誕生日」なのです。
保吉は食後の紅茶を前に、ぼんやりとタバコをふかしながら、大川の向こうへと消えてしまった二十年前の幸せを夢見ていました。
……
この数編の小品は、一本のタバコを吸い終わるまでの間に、次々と保吉の心をかすめていった思い出のいくつかを書き留めたものです。
二 道の上の秘密
保吉が四歳の時のことです。
彼は「つうや」という女中さんと一緒に、大きな溝のある往来を通っていました。黒々と水をたたえた溝の向こう側は、のちに両国の駅になった、名高い御竹倉(おたけぐら)の竹やぶです。
本所七不思議の一つに数えられる「狸のバカ囃子(ばやし)」は、このやぶの中から聞こえてくると言われていました。少なくとも保吉は、誰から聞いたのか、狸の囃子が聞こえるのはもちろん、おいてき堀や片葉の葦(あし)もすべてこの御竹倉にあるものだと信じきっていました。
しかし今では、その気味の悪いやぶも、狸などはどこかへ追い払ってしまったかのように、日の光を浴びて澄んだ風の中で、黄色くなった竹の穂先をそよがせています。
「坊ちゃん、これをご存知ですか?」
つうや(保吉は彼女をこう呼んでいました)は彼を振り返りながら、人通りの少ない道の上を指さしました。
土ぼこりで乾いた道の上には、かなり太い線が一本、ぼんやりと向こうへ伸びています。
保吉は、前にも道の上でこんな線を見たような気がしました。しかし今も、その時と同じく、それが何なのかは分かりません。
「何でしょうね? 坊ちゃん、考えてみてください」
これはつうやのいつものやり方です。彼女は何を尋ねられても、すぐには教えず、決して素直には教えてくれないのでした。彼女は、必ず一度は厳格に「考えてごらんなさい」と繰り返すのでした。
厳格に――といっても、つうやは母親のように年をとっていたわけではありません。
やっと十五か十六になったばかりの、小さな泣き黒子がある女の子です。
もちろん彼女がそう言ったのは、保吉の教育に少しでも力を貸したいと思ったからでしょう。
彼もつうやの親切には感謝したいと思っています。
けれど、もし彼女自身がこの言葉の意味をもっと本当の意味で知っていたなら、きっと昔ほどしつこく何にでも「考えてごらんなさい」と繰り返すような愚かなことはしなかったはずです。
保吉はそれから三十年間、いろいろな問題を考えてきました。
しかし、何も分からないという点では、あの賢いつうやと一緒に大きな溝のある道を歩いていた時と、少しも変わっていないのです。
……
「ほら、こっちにももう一つあるでしょう? ねえ、坊ちゃん、考えてごらんなさい。この線は一体何でしょう?」
つうやは前と同じように、道の上を指さしました。
なるほど、同じくらいの太さの線が、三尺(約一メートル)ほどの距離を保ったまま、土ぼこりの道を走っています。
保吉はまじめに考えた末、ついに答えをひらめきました。
「どこかの子がつけたんだろう、棒か何かを持ってきてさ」
「それでも、二本並んでいるでしょう?」
「だって、二人で線を引けば二本になるもの」
つうやはニヤニヤ笑いながら、「いいえ」と言う代わりに首を振りました。
保吉はもちろん不満でした。
しかし、彼女はすべてを知っている存在です。いわば、デルポイの神託を授ける巫女のようなもの。
きっと道の上の秘密も、とうの昔に見抜いているに違いありません。
保吉はだんだん不満を感じる代わりに、この二本の線に対する不思議な気持ちがわいてきました。
「じゃあ何さ、この線は?」
「何でしょうね? ほら、ずっと向こうまで同じように二本並んでいるでしょう?」
実際、つうやの言う通り、一本の線が曲がっているときには、向こう側に横たわっているもう一本の線も、ちゃんと同じように曲がっています。
そればかりか、この二本の線は、白っぽい道が続いている向こう側へ、永遠そのもののようにずっと伸びているのです。
これは一体何のために、誰がつけた印なのだろう? 保吉は幻灯機に映し出されるモンゴルの大砂漠を思い浮かべました。
二本の線は、その大砂漠にも同じように細々と続いている気がします。
……
「ねえ、つうや、何だって言えばいいの?」
「まあ、考えてごらんなさい。何か二つ揃っているものですよ――何でしょう、二つ揃っているものは?」
つうやは、どんな巫女もそうであるように、ぼんやりとしたヒントを与えるだけです。
保吉はますます一生懸命になって、箸とか手袋とか太鼓のバチとか、二つあるものを次々に並べ立てました。
でも、彼女はどの答えにも満足した様子を見せません。
ただ妙に微笑んだままで、相変わらず「いいえ」と繰り返しているのです。
「ねえ、教えてよ。ねえってば。つうや。このバカつうやめ!」
保吉はついに腹を立ててしまいました。
お父さんでさえ、彼の癇癪(かんしゃく)にはめったに正面から立ち向かったことはありません。
いつも彼のお守りをしているつうやも、そのことは重々承知しているはずですが、彼女はようやく厳か(おごそか)に道の上の秘密を説明しました。
「これは、車の輪の跡ですよ」
これは車の輪の跡です! 保吉は呆気にとられたまま、土ぼこりの中に途切れ途切れに続く二本の線を見つめました。
同時に、大砂漠の空想などは蜃気楼(しんきろう)のように消えてしまいました。
今はただ、泥だらけの荷車が一台、寂しい彼の心の中で勝手に車輪を回しているような気分です。
……
保吉は今でも、この時受けた大きな教訓を心に刻んでいます。
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