「それじゃ、忠夫は刑務所に入ることになるのかい」母は気が動転して、悲鳴のような声を出した。
「警察に留置されているだけだ。
船主でねえんだから、すぐ釈放になるべ」父は案外落ちついた声で話した。
しかし煙管に刻み煙草を詰める手が震えていた。
「何だって、そんなことをしちまったのかねえ」
「海に線を引いて、こっから先は獲っちゃいかん、てんだ。
向こうには魚がわんさといるとわかってりゃ、マッカーサー・ラインでも何でも越えて行きたくなるわな」
それから父は、煙管を何度もストーブ台の縁に叩きつけた。
茶の間に不安な空気が漂い、誰もが黙ってしまった。
大分たって父はまた愚痴った。
「いままで誰に文句もいわれんで獲ってた海なんだが、……何たって戦争に敗けたんだからしゃあねえさ」
忠夫は一週間の拘留を受けたのち、帰宅した。
漁船の船主は操業停止の処分を受け、出漁できなくなった。
忠夫の漁船員の仕事も終わりになった。
また仕事を探し始めたが、今度はツキが落ちたみたいに見つからない。
毎日出ていっては酔って帰ることが多くなった。
泥酔して大声でわめき散らす兄の姿に捨てばちなものを感じて、克夫は不安を募らせた。
「フィリピンちゅうと、南洋だべさ」
隣の柾屋の親父が、犬の肉のお礼にイナキビでつくったドブロクを持ってきた。
それをちびちび飲みながら戦争の話になった。
父は寄り合いに出ており、母は台所にいた。
問われるままに忠夫は話し始めた。
「ええ、ココヤシ、パイナップル、バナナなんかが穫れるところですから」
「それじゃあ、食い物に不自由はなかったかい」
「とんでもない、いつも腹ぺこでした。
支給される食糧では飢え死にしちゃいますから、夜ごと徴発に出かけたもんです。
……徴発とは、要するに現地人からむりやり奪い取ってくる」
「…………」
「スコールはまったく天の恵みでしたね。
夕立の親玉みたいなやつが猛烈に降ってきて、さっと上がっちまう。
すると、草むらにカタツムリがうじゃうじゃ現われる。
それを掻き集めて、飯盒で煮て食うんです」
「デンデン虫まで食ったって!」
「日本のカタツムリより大きくてよく肥えてんですよ。
味もまるで何かの貝のようにうまいんです」
「へえ……」
湯飲み茶碗のドブロクをすする忠夫の眼は、異様に光ってきた。
酔いがだんだん饒舌にしているようだった。
「現地人も米の飯を食ってるんですけど、こんな食い方があります。
まず丼に炊きたてのご飯を八分目ほど入れる。
それから生きた家鴨を連れてきて、逆さにぶら下げ、首を斬る。
噴き出す血をすばやく丼に注いで、ちょうど丼一杯になったら、フーフー吹きながら熱いうちに食う……」
「うわ、胸がわるくなる」
柾屋の親父は口をへの字にして気味悪がった。
「サトウキビも穫れるって聞いたがな。
砂糖を使った料理はなかったかね」
「そう、製糖工場もあった。
そこが爆撃されたときは凄かったですよ。
融けた砂糖が水飴になって流れる、そのなかに逃げ遅れて死んだ奴がごろごろしてるんです」
「いやいや、まるで人間の甘煮だねえ」
「そうです。
ちょうど人間の甘煮です、あれは……」
忠夫はうなずいてみせたが、柾屋は自分の軽はずみな言い方に気づき眼をキョロキョロさせた。
あわてて別なことを言った。
「に、人間を斬ったことがあるかね」
「…………」忠夫は茶碗を持つ手を宙にとめた。
「斬ったことはないですよ、機関銃兵だから撃つだけです」
「ああ、そうか。
銃撃戦は遠く離れてるから、殺った手応えがないねえ」
「いや、そんなことはない。
遠くにいても手応えを感じますよ。
敵さんが死ぬ時の、魂が空中に抜け出す音が聞こえるんです」
「ど、ど、どんな音だね」
忠夫は頬に薄笑いを浮かべ、茶碗を床に置いた。
克夫は息苦しくなって、身を固くした。
「ヒューッという感じだね。
タイヤの空気が抜けるみたいな。
それは戦場がいくらやかましくても聞こえる。
ヒューッ、ヒューッ、ヒューッ、立て続けに聞こえたりしたら気持ちが昂って、何も恐ろしいものはなくなってしまうのさ」
「…………」
柾屋はうろたえた目つきをした。
そして額の汗を拭った。
忠夫の頬や首筋にも汗が流れていた。
「お、女はどうだったね。
フィリピンの女は」柾屋は話題を変えようとした。「どうって?」
「あそこにはスペイン系の綺麗な人たちがいるって聞いたけどね」
「そりゃあもう、みんなモデルみたいに見えましたよ」
「手に入ったのかい?」
「…………」
忠夫はぐっと黙り込み、柾屋のおじさんを射るような目で見た。
女の話題になると、お兄ちゃんは荒々しくなる。
いつだったか、夜の街で漁師仲間たちと喧嘩をして、鼻血をたらしながら帰ってきたことがあった。
あれも女のことが原因だったと、お母さんがお姉ちゃんたちとコソコソ話していたのを覚えている。
克夫は、物置小屋の暗がりで兄の首に絡みついていた、あの白い腕のことを思い出していた。
「おじさん、変なこと聞かないでくださいよ」
いつの間にか茶の間に戻ってきたお母さんが、ピシャリと注意した。
柾屋のおじさんは、下品な笑い声をペタペタと立てた。
春が来て雪がとけると、お父さんは幌(ほろ)をつけたリヤカーを引っ張って、下駄の歯を直して回る移動仕事(巡回歯入れ)を始めた。
世の中がすっかり靴の時代になりかけていて、下駄はだんだん見かけなくなっていたけれど、お金のない人たちはすり減った下駄や足駄(あしだ)を大事に履いていたから、この出張修理はそういう人たちにとても喜ばれていた。
お父さんはこうして毎日、その日暮らしのお金を稼いでいたのだ。
海側の高島町というところまで回るには、山を一つ越えていかなければならない。
リヤカーがすごく重いので、忠夫がお手伝いすることになり、克夫も一緒についていくことになった。
なだらかだけれど、ずーっと続く長い坂道だった。
お父さんが前で引っ張り、忠夫と克夫が後ろから押す。
もっとも、克夫のほうはただ手に力を添えているだけで、何の役にも立っていなかったけれど。
坂を登っていくにつれて、小樽の港が前方の松林のすき間から見えてきて、やがて足の下にすっごい景色が広がった。
てっぺんまで着くと、お父さんは「あとはわし一人で引っ張っていくから」と言った。
すると忠夫がスーッと前のほうに出て、「ちょっと話があるんだ」と言い、振り返って克夫に「おまえはもう帰れ」と命じた。
克夫はしぶしぶリヤカーから離れたけれど、見たことのない町へ行ってみたい気持ちがあって、少し離れたところからこっそりついていった。
「父さん、おれさ……」と忠夫が話し始めた。
松林を吹き抜ける風がピーピーと笛みたいに鳴って、お父さんとお兄ちゃんの会話を邪魔したり、ときどき風に乗って耳元まで運んできたりした。
「……時間が解決するさ。じっと耐えてろ」
お父さんは忠夫と並んでリヤカーを引きながら、ぐっと力を込めて言った。
「だっておいら、辛くなるばかりだもん。いっそこの町を出て行こうかと……」
お兄ちゃんの声は、まるで苦しくて呻(うめ)いているみたいだった。
「出て行くったって、どこへ行くんだ」
「叔父貴に相談してみようと思うんだ。
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