初級翻訳・尾なし犬 第1話

佐野 良二

丘を渡る風がとても心地よかった。
克夫(かつお)は、崖の突き出しに生えた草むらに腰を下ろし、夢中でスケッチブックに向かっていた。
目の下に広がる小樽港の景色が、キュッと凝縮されて膝の上の画用紙におさまっていく。
空は薄曇りで、海面は鮮やかな青というよりも、どこか鉛色に近い青色をしていた。
青いクレヨンがすり減っていて、空や海を塗りつぶすにはちょっと足りそうにない。
鼠色のクレヨンもすっかり短くなっていたが、2Bの鉛筆と上手に混ぜ合わせればなんとかなりそうだった。
港の中央には、アメリカの巡洋艦が二隻、まわりの小さな船の群れを圧倒するようにドッカリと停泊している。
まるで巨大な海の怪獣が姿を現して、まわりの雑魚たちが怯えながら遠くから眺めているような感じにも見えた。
陸地の蒲鉾(かまぼこ)みたいな倉庫が建っているあたりから、まるでマッチ箱を並べたような小さな貨物列車が出ていく。
そこから吐き出される煙まで薄くて、なんだか元気がない様子だった。
海から吹きつけてくる風が体を通り抜け、頭の感覚をシャキッとさせてくれる――そう思ったのもつかの間、だんだんと頭の芯がぼんやりしてきて、顔がカッカとほてってきた。
また熱が出てきたんだろうか。
克夫は自分の額に手のひらを当ててみた。
額はやっぱり熱かった。
彼はクレヨンを箱にしまい、よいしょと立ちあがった。
その瞬間、ふっと足元の原っぱがグラリと揺れるような気がした。
丘の道をとぼとぼと下りていくと、学校で一学年上の鉄郎(てつろう)に出会った。
鉄郎は草の茎をくわえながら、「おい、いまお前んちに復員兵(ふくいんへい)が入っていったぞ」と教えてくれた。
克夫は頭の中が急グルグルと回転するような衝撃を覚えた。
いてもたってもいられず、走って坂を下りた。
後ろから誰かに背中を押されるような感じで、平らな道を走るのとは違ってそれほど足は疲れないはずなのに、すぐに息が苦しくなってしまった。
家の玄関の土間には、古ぼけた軍用の編上靴(へんじょうぐつ)が脱ぎ捨ててあった。
茶の間をそっと覗いてみると、よれよれに汚れた背嚢(はいのう)がぽつんと置いてあったけれど、誰もいない。
家の裏から話し声が聞こえてきたので、そちらへ回ってみることにした。
物置小屋の前に、お父さんと向かい合っている、兵隊服を着た男の後ろ姿が見えた。
小屋の前には、たくさん下駄の木地(きじ)が井桁(いげた)の形に積み上げられて乾かされている。
お父さんはその木片を一個手に持ったまま、なんとも言えない、はっきりしない顔をしていた。
克夫が近づいていくと、その横でまるで腰を抜かしたみたいにペタリとしゃがみ込んでいるお母さんの姿も目に入ってきた。
兵隊服の男が、こちらをふっと振り向いた。
顔じゅうが、ぼうぼうの不精髯(ぶしょうひげ)で埋め尽くされている。
その髯がもごもごと動いて、「克夫か」と言った。
克夫がこくんとうなずくと、男はゆっくりと近づいてきて、「大きくなったな」と言いながら頭をぐしゃぐしゃとなでた。
体がぐらりと傾くほど荒々しい手つきだった。
その袖口から、汗と埃(ほこり)がごちゃまぜになった独特の匂いが鼻をツンと突いた。
急に目の前がまっ暗になった。
「どうしたんだ」と、男はしゃり込んでしまった克夫に尋ねた。
「また走ってきたんだべ。この子、体が弱くてねえ。虚弱体質(きょじゅくたいしつ)っちゅうか……」とお母さんが代わりに答えて、「おぼえてるか? お兄さんの忠夫(ただお)だぞ」と克夫のほうに向かって言った。
「走ったくらいでそんなになるのか?」忠夫は克夫を軽々とひょいと抱えあげた。
「もう、大丈夫だから……」克夫はもがきながら小さな声で言った。
十二歳も年上の兄さんは、自分とは比べものにならないほど大きな、がっしりとした大人の体だった。
しばらくして、次女の芳枝(よしえ)が中学校から帰ってきて、それに続いて電話局で交換手をしている長女の房枝(ふさえ)も帰ってきた。
二人とも忠夫の顔を見るなり「わあ!」と歓声をあげ、目頭を熱くして涙ぐんだ。
忠夫は裏庭で井戸水を使って行水(ぎょうずい)をし、伸びた髯をきれいに剃り落とすと、頬はこけてはいたものの、すっきりと男らしい端正な顔立ちがあらわれた。
姉たちは、やっとお兄さんらしくなったねとか、さっきはまるで本物の乞食(こじき)みたいだったよ、などと口々に言い合って笑いあった。
あんなに長い間会っていなかったのに、こんなに簡単に兄さんと打ちとけている姉たちの姿を見て、克夫は少しだけ妬(ねた)らしく思った。
その日の夜は、家の電灯がいつにも増してとても明るく感じられた。
いざというときのために大切にとっておいた白米が、もったいないとも思わずにたっぷり炊かれ、忠夫が復員列車の途中で闇屋(やみや)から手に入れたという鯨肉(げいにく)の缶詰もパカッと開けられた。
茶の間には家族の笑い声がひっきりなしにわき起こり、ただ家族みんながこうして揃ったというだけで、こんなにも心が和むものなんだなと不思議に思えるほどだった。
「怪我も病気もしなかったか?」
お父さんの問いかけに、忠夫は答えた。
「一時はマラリアにかかりそうになったけど、大したことなかったよ。でも、フィリピンの山の中では本当にひどい目に遭ったなあ。おれは機関銃兵(きかんじゅうへい)だからさ──機関銃ってふつうは四人で運ぶもんなんだが、戦闘が激しくなると二人だけで担がなきゃならない時もあるんだ。死物狂いになれば人間すごい力が出るもんだけど、踏ん張って耐えてるうちに、つい脱腸(だっちょう)になっちまってさ」
「…………」
忠夫は話の途中でスッと立ち上がり、はだけた浴衣の間からふんどしを少しだけずらして見せた。
毛の生えぎわのあたりに、大きく引きつれた生々しい手術の痕が残っていた。
「もう、やだなぁ、兄さんってば!」姉たちは慌てて両手で顔を覆ったり、恥ずかしそうに目を伏せたりした。
「何が嫌なんだ、命がけで戦ってきた勲章(くんしょう)の痕だぞ」とお父さんは真面目な顔で言った。
「脱腸くらいで済んでよかったよ。よくぞ弾丸に当たらなかったもんだねぇ」とお母さんはそう言いながら、ぽろりと涙を浮かべた。
「機関銃兵なんて最前線だからな。頭の上を弾丸がビュンビュン飛び交う中をくぐり抜けてきたんだ。バギオの戦いでは、戦友のほとんどが死んちまった。こうやっていま生き残っているのが、なんだか嘘みたいに思えるよ」
忠夫は、はるか遠くの凄惨な出来事を思い巡らせるように、低く静かな声でそう語った。
翌日の朝、克夫が学校へ出かけるとき、忠夫はまだぐっすりと眠っていた。
学校の授業が終わると、克夫は寄り道もせずにまっすぐ家へと急いで帰ってきた。
すると忠夫は、家の裏庭で枯れ葉などを集めて焚火(たきび)をしていた。
克夫がそばに立ってじっと見ていると、忠夫は「ちょっと家の陰に行ってろ」と低い声で言った。何を始めるのか教えてもくれず、有無を言わせない言い方がちょっと面白くなかったけれど、克夫は言われたとおりに表通りへと出た。
しばらくすると、裏庭のほうからパンッ、パンッ、パンッと鋭い音が響いてきた。
それは三回鳴り響いた。
克夫はびっくりした。

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