先生も闘うぞ」
克夫の才能を認めて指導している図工の教師はそう言って励ました。
理由はどうあれ落選したのだ。
そんな癪な話は両親にもしないでおこうと思った。
学校から帰ってくると、家の前に、日傘を差した着物の女の人がいた。
家のなかを窺っているように見えた。
彼が玄関に近づいていくと、家の者と感じたのか、何気ない素振りで背を向けた。
日傘を斜めにしたので顔は見えず、化粧の匂いだけが漂った。
鞄を茶の間に放り込んで、また玄関から出ると、女の人は精米所わきの小路からこっちを見ていた。
今度は顔が見えた。
淋しげな瓜実顔だった。
彼女はことさら無関心を装っているようだったが、こっちを意識していることは克夫にもわかった。
夕食のとき、克夫はその女の話をした。
「誰だって?」と母が聞いた。
「知らない人。色の白い、きれいな人だったよ」と克夫は感想を述べた。
「私より美人」と芳枝が聞いた。
「うん、何倍も」
「こら」
「いったい誰かねえ」
母は首を傾げた。
忠夫は黙って食事をしている。
房枝は芳枝と顔を見合わせ、それから母に向かって意味あり気な視線を送った。
母はますます訳がわからないという表情になった。
忠夫がいつもより遅く帰った。
酔ってわめき立てる声に、寝室で眠りかけていた克夫は眼が覚めた。「なしたの、こんなに正体なくなるまで飲んで」と母がしかっている。
忠夫は、ろれつの回らない大声を出した。
「……もう真っ暗よ。暗くて前が見えねえ」
「悪い酒飲んだんでないべな。メチールを飲んで目の潰れたやつがいるっちゅうが」と父が聞きとがめた。
忠夫はけたたましい笑い声をあげたかと思うと、また怒鳴った。
「……女は、男一人にトラック一杯分もいるっちゅうぞ」
克夫は布団から抜け出すと、ふすまを開けてのぞいてみた。
兄がだらしない格好で寝そべっていた。
酒くさいにおいを茶の間に充満させ、「命がけで帰ってきたっちゅうのに!」などとわめいている。
このごろは克夫でさえ、あんなだだっ子のような態度はとったことがない。
いつもの兄とは別人に見えた。
ふすまを閉めようとすると、運悪く気づかれてしまった。
「なんだ、そんなとこからのぞいてたのか」と、変にすわった目つきで言った。
克夫はふすまを閉めようにも手が動かなくなった。
「おい、泣き虫の絵描きさんよ」と、なおもいやみな言い方をする。
克夫は視線を畳に落とした。
「弟にからんでどうなるっちゅうの」と母が忠夫の前に立ちふさがり、せきたてて向こうの部屋へ連れていくようだった。
そこでやっと克夫はふすまを閉めた。
ほどなく忠夫を寝かしつけたらしく、茶の間から母の声が聞こえた。
「戦争の傷がまだ治んないんだべかな」
それには誰も答えなかった。
かわりに房枝が何か芳枝にささやき、芳枝は「ほんと」と驚いた声をあげた。
「なんだ、こそこそ話したりして、言いたいことあるんか」
父の決めつける声に、姉たちは黙り込んだ。
兄が荒れると家族みんなが荒れる――克夫は布団の中で体を縮めながらそう思った。
克夫はちゃぶ台に向かって、芳枝の図工の教科書からセザンヌの絵を模写していた。
すると台所から母と房枝の声が聞こえてきた。
「兄さんが深酒するのは、その女の人が結婚していることがわかったからよ」
「……そんなこと、誰に聞いた」
「梅ケ枝の康(やす)さん。『内緒だぞ』って教えてくれたの」
「じゃあ、その女は何だって忠夫に会いに来たんだね」
「未練があるってことでしょ」
「…………」
「兄さん、まだその人が好きなのよ。でも、しようがないわよね、あきらめるしか」
「何で忠夫が帰ってくるまで待っとれんかったんか。薄情な女でないか」
「やっぱり、やむにやまれん事情があったんでしょ」
「……思い続けて、生死の間をさまよって、命からがら帰ってきてみたら、他人の妻になっとるなんて、あんまりかわいそうっちゅうもんだわ」
「戦争のせいよ。いまさらどうしようもないっしょや」
「忠夫が不憫(ふびん)でならん」母は感情の高ぶった声をあげた。
克夫の耳に、「女なんて掃いて捨てるほどいるさ」と怒鳴った兄の言葉が聞こえた。
だったら、早く別な人を見つければいいのに、と思った。
花園町の踏切の近くに西洋館風な病院があった。
克夫は母に連れられて、定期的にそこを訪れた。
待合室には無気力な顔つきの人たちが大勢いた。
さんざん待たされたあと名前が呼ばれ、克夫は母について診察室へ入った。
医者はちょびヒゲを生やした太った男だった。
裸にさせられた克夫の薄い胸に聴診器を当て、顔を斜めにして音を聴く表情をした。
「熱は出るかね」
「はい、ときどき」
医者が問うと、克夫の後ろにいる母が答えた。
「そうかね、学校では元気にやってるの」
「…………」今度は克夫がうなずいた。
体育の時間、運動場の隅で級友が走り回っているのを見ていることのほうが多いが、それは黙っていた。
「寝汗は出ないかね」
「……ときどき」
「そう」
医者は手のひらを克夫の胸に当て、その甲をトントンとたたいた。
位置を変えるたびに生温かい感触が動き、いやな感じだった。
「やっぱり、栄養つけないといかんねえ」と医者は顔をあげて言った。
「なんか精のつくものを食べないと」
「はあ、好き嫌いの多い子だもんですから」と母の声がまた後ろから聞こえた。
「そりゃあ困ったね。こんな物のないときに、ぜいたくは言っていられんぞ」と医者は克夫の頭をなでた。
優しいなで方だったが、不愉快な気がした。
「肝油(かんゆ)を飲みなさい、私が手に入れてあげるから」
それから日に三度、三粒ずつの肝油を飲むことになった。
「いいか、高い薬なんだから、捨てたりしちゃいかんよ」と母は言った。
白いろう石のような丸薬は味がなく、口に入れると脂っぽくて吐き気がした。
克夫は目を閉じて飲んだ。
そんな数粒で体が丈夫になるとは思えなかった。
だんだん衰えているのかもしれない、と克夫は老人のように考えた。
死ぬのがそんなに遠いことではない気がした。
しかし、死がこわいものとは思えなかった。
暗闇、永遠の暗闇……。
彼はいつか闇の中にぽっかり浮かんでいる夢を見たことがある。見渡す限り何もない宇宙空間のような暗黒の世界に、たった一人、横になって浮かんでいた。
それなのに不思議に恐怖を覚えなかった。
そこには何か安らぎのような感覚があった。
房枝は〈連合台〉の交換手として英語にもかなり慣れてきたみたいだった。
あるとき、おかしそうに電話局での出来事を話した。
「交換手が若いと知ると、きっと誘うのよ。
忙しいと言っても、あなたはどこに住んでますかとか、姉妹がいますかとか……」
「へえ、みんなそんなこと聞くの」芳枝が興味を示した。
「うーん、約三割がそうね」
「電話じゃハンサムかどうかわからないしねえ」
二人の話を聞いていた父が、ついに「冗談じゃねえ、アメリカ兵なんかと付き合ったら承知しねえぞ」と怒った声で言った。
房枝は顔を赤らめた。
「何言ってるの、そういうときは I don’t understand what you are saying.って答えるんだから」と英語のところだけいっぱしの発音で言った。
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