木の下が真っ暗になるほどびっしりと生い茂り、そのあいだにヤマザクラの若い木だろうか、恥じらうように白く花を咲かせかけなのが、二、三本見えた。
「いったいどうしたんです、何がそんなにおかしいんですか」
「――水がね、濁っている」
平四郎は口ごもった。
「濁ってちゃいけないんですか」
「――その理由がね」
ずっと雨も降っていなければ、流れ込む川もない。
それなのに池の水は澄んでいるはずであり、こんなふうに濁るわけがないのだ。
それに、池のまわりを囲んでいる林もおかしい。どういうふうにおかしいのか言葉ではうまく言えないが、何やら不安定で、ざわざわした気配が感じられるのだった。
こうした意味のことを、平四郎はゆっくりと、手まねを交えながら説明した。
「それはきっと、あれですよ」主馬はあっさりと言った。「かんば沢の大崩壊で、このあたりの地盤全体が……」
平四郎が振り返った。
主馬も振り返った。
そして、二人は(主馬のほうが先に)走り出した。
おーい、という声。
いたぞ、という叫びが、すぐ目の前にある茅戸山の中腹の林の中から聞こえてきたからだ。
「どこだ――」
走りながら主馬が大声で叫んだ。
彼は声を頼りに林の中へとびこんだ。
そこはかなりの急斜面で、木の下枝がびっしりと交わり、さらに足元にはササが地面を覆っていたので、うっかりすると足を滑らせそうだった。
「ここです、こっちです!」
声はすぐ近くで聞こえ、捕り方の男たちが五、六人集まっているのが見えた。
二
「どうした、捕らえたか!」
こう叫びながら主馬がそちらへ近づいていった。
捕り方の男たちが左右にパッと分かれた。
するとそこに、次高来太(つぎたかくるた)の姿が現れた。
彼はまるで野獣のようだった。
着物も袴もびりびりに引き裂け、ほころびている。
髪の毛はボサボサに乱れ、顔には泥と、(茨か何かで引っかかったのだろう)何筋もの乾いた血の跡がついていた。
目は三角につり上がり、歯をむき出しにして、右手に刀を持ったまま、なんとも不自然な姿勢でわめき散らしていた。
「おのれ、どういうつもりだ、こんな卑怯なまねをして、恥を知れ!」
「なにを怒っているんだ」
「あれです」
捕り方の一人が、来太の足元を指さした。
鉄で作られた大きな罠が、来太の右足をガッチリと噛み締めていた。
噛み合った鉄の鋭い歯は、おそらく骨まで達しているだろう。
すねの下から革足袋も草履も、すっかり血に染まっていた。
「この土地の者が、イノシシ用に仕掛けた罠だそうです」
捕り方の男が言った。
「それに足を突っ込んでしまったんです」
「――なんと」
主馬は目を丸くして平四郎の方を振り返り、それから右へ、来太の前を半周した。
来太は喉が裂けそうになるほどわめき声を上げ、自由な片足でなんとか体を支えながら、やみくもに刀を振り回した。
今や、彼の“みじん流”の剣術など何の役にも立たない。心血を注ぎ、鍛えに鍛え抜いて、江戸でも指折りと言われた彼の腕前は、もはや三歳の子どもすらおびやかすことができないほど無力になっていたのだ。主馬は平四郎を見た。
「村田さんがもしも、これを見て笑うとしたら、私はもう村田さんを尊敬しませんね」
彼は顔をへんなぐあいに歪め、くいしばった歯の間から、妙な、かすれたような声で、こう言った。
「これは神を嘲弄するものであり、人間に対する冒涜です。私にもしも親の仇敵があって、そいつを八つ裂きにしてやりたい、と思うほど憎んでいる、としてもですね、その男をこういう(と彼は来太のほうへ手を振った)こういうざまにはしたくない、こういうざまでは決して見たくない、といったありさまじゃないですか、そう思わないですか」
「――思わないね」
「思わない、思わないですか」
こう言ったとたん、主馬は、まるで矢が弦を放れたように、笑いだした。
思うに、彼の歪んだ表情や、歯をくいしばったような、妙な声は、笑いを堪えるための、克己心のあらわれだったらしい。
それが、平四郎の無感動な顔を見て、ついにがまんが切れ、笑いの発作におそわれた、もののようであった。
「卑怯者、それでも武士か」来太はこう絶叫していた、「恥を知れ、尋常に勝負しろ、来い」
そして、罠を外そうとして、片手を伸ばし、苦痛の呻きをあげて、横さまに、尻もちをついた。
「もうよせ、じたばたするな」
主馬が、ようやく笑いやんで、涙を拭きながら言った。
「柳沢の勢力は瓦解した、甲府城も幕府の手に押えられた、夢は終ったんだ、むだな騒ぎはやめろ」
すると平四郎が言った。
「あっちでなにか声がするぞ」
主馬もふり返った。
それは上の(つい今しがた二人のいた池畔の)ほうで聞こえた。
平四郎はすぐ、そっちへ向って、木の間をぬけながら、駆け登っていった。
主馬も、あとを追おうとして、ふと捕方の者に振向き、「こいつはもう動けまい」と来太を顎でしゃくった。
「へたばったら縛れ、それまで手出しをせずに見ているがいい、もしまた暴れでもするようだったら、棒で叩き伏せてやれ」
「それを待っているか」
来太はそう叫び、刀を逆手にして、いきなり脇腹へ押し当てた。
捕方の者たちがびっくりし、慌てて刀を叩き落そうとした。
「ああよし、構うな」
主馬が目をそむけながら言った。
「武士の情けだ、切らせてやれ」
そして走り出した。
平四郎のあとから、登ってゆくと、とつぜん眼の前を、一疋の兎が、さっと横切った。
すぐ眼の前だったし、ふいをつかれて、主馬はあっと声をあげた。
「――凶兆だ」
なお登り続けながら、彼はそう呟いた。
兎に前を横切られるのは凶兆である。
そんな気がした。
が、考えてみると、そんなことは聞いた覚えがなかった。
登りきったところは、さっき平四郎と立っていた、椹ヶ池のそばであった。
すぐ向うに、棒を持った捕方の者が、七八人で、誰かをとり囲んでいる。
平四郎はこちらに立って、珍しく大きな声で、「おやめなさい、むだなことです」と呼びかけていた。
「ここをきりぬけたところで、逃げおおせるものではない、せめて終りだけでもきれいにしたらどうです」
相手は返辞をしなかった。
刀を青眼に構えて、蒼白くひきつったような顔で、捕方の者を睨みながら、激しく肩で喘いでいた。
藪や林の中を逃げまわったのであろう、これもまた泥だらけで、着物も袴も裂け、髪もばらばらになっていた。
主馬は、おっ、と目をみはった。
彼はその顔に記憶がある、いつか麻布南部坂の昌雲寺で、安倍家の法事が行われたとき会った、名は忘れたが、その痩せた、病的に皮肉な顔だちはよく覚えていた。
主馬の認めるとおり、それは遠藤千之助であった。
彼もまた、登世といっしょに、この甘利へ来ていたとみえる。
来るまでの事情は、判然とはしないが、おそらく、彼もまた甲府城に拠って、ひと合戦という、夢に憑かれたのであろう。
しかしそうではなく、亡き父の兵庫が、この土地で失踪したということに惹かれて、かれらと行を共にしたのかもしれない。
いずれにせよ、彼が登世の事に座して、その破滅のみちづれになったことだけは、事実のようである。
「待った待った」
主馬はこう叫びながら、千之助のほうへ近づいていった。
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