初級翻訳・怪人二十面相 第27話

怪人二十面相

「先生、ぼく少しわからないことがあるんです」
小林少年は、いつも納得がいかないことは、できるだけ早く、勇敢に尋ねるのが習慣でした。
「先生が二十面相をわざと逃がしてあげた理由は、ぼくにもわかります。けれど、なぜあのとき、ぼくに尾行させてくださらなかったのですか。博物館の盗難を防ぐためにも、あいつの隠れ家がわからないと困るんじゃないかと思うのですが」
明智探偵は小林少年の非難を、うれしそうにニコニコしながら聞いていましたが、立ち上がって窓のところへ行くと、小林少年を手招きしました。
「それはね。二十面相のほうで、ぼくに知らせてくれるからだよ。なぜだかわかるかい? さっきホテルで、ぼくはあいつを十分に恥ずかしめてやった。あれだけの凶賊を、探偵が捕まえようともしないで逃がしてやるのが、どんなにひどい侮辱か、君には想像もできないくらいだよ。二十面相は、あのことだけでも、ぼくを殺してしまいたいほど憎んでいる。そのうえ、ぼくがいてはこれから思うように仕事もできないのだから、なんとかしてぼくという邪魔者を消そうと考えるに決まっている。ごらん、窓の外を。ほら、あそこに紙芝居屋がいるだろう。こんな静かな場所で、紙芝居が荷を下ろしたって商売になるはずはないのに、あいつはもうさっきからずっとそこに立ち止まって、この窓を、見ているようなふりをしながら一生懸命に見ているのだよ」
言われて小林君が、明智邸の門前の細い道路を見ますと、いかにも一人の紙芝居屋が、怪しげな様子で立っているのです。
「じゃあ、あいつは二十面相の部下ですね。先生の様子を探りに来ているんですね」
「そうだよ。ほら、ごらん。別に苦労して探し回らなくても、先方からちゃんと近づいてくるだろう。あいつについていけば、自然と二十面相の隠れ家もわかるわけじゃないか」
「じゃあ、ぼく、姿を変えて尾行してみましょうか!」
小林君は気が早いのです。
「いや、そんなことしなくてもいいんだ。ぼくに少し考えがあるからね。相手は、なんといっても恐ろしく頭の切れるやつだから、うかつな真似はできない。ところでねえ、小林君、明日あたりぼくの身辺に、少し変わったことが起こるかもしれないよ。だが、決して驚くんじゃないぞ。ぼくは決して二十面相なんかに出し抜かれたりしないからね。たとえぼくの身が危ないようなことがあっても、それも一つの作戦なのだから、決して心配するんじゃないよ。いいかい?」
そんなふうに切々と諭されますと、小林少年は、するなと言われても心配しないわけにはいきませんでした。
「先生、もし何か危ないことでしたら、ぼくにやらせてください。先生にもしものことがあっては大変ですから」
「ありがとう」
明智探偵は、温かい手を少年の肩に当てて言いました。
「だが、君にはできない仕事なんだよ。まあ、ぼくを信じていてくれたまえ。君も知っているだろう。ぼくが一度だって失敗したことがあったかい……。心配するんじゃないよ。心配するんじゃないよ」

さて、その翌日の夕方のことでした。
明智探偵の門前、ちょうど昨日、紙芝居屋が立っていたあたりに、今日は一人の乞食が座り込んで、時たま通りかかる人に何か口の中でモグモグ言いながら、お辞儀をしております。薄汚れた手ぬぐいを頭にかぶり、あちこちに継ぎ当てをしたボロボロの着物をまとい、一枚のござの上に座り込んで寒そうにブルブルと震えているその姿は、いかにも哀れで同情を誘うものでした。
ところが不思議なことに、通りに人通りがなくなると、この乞食の様子が一変するのです。
今まで低く垂れていた首をむくりと持ち上げ、顔じゅうを覆う無精ひげの間から鋭い目を光らせて、目の前にある明智探偵の家をジロジロと眺め回すのです。

明智探偵はその日の午前中はどこかへ出かけていましたが、三時間ほどして帰宅すると、通りからそんな乞食が見張っているのを知ってか知らずか、表に面した二階の書斎で机に向かい、しきりに何か書きものをしていました。
その位置が窓のすぐ近くなものですから、乞食のいる場所から明智の一挙手一投足が、手にとるように見えるのです。
それから夕方までの数時間、乞食は根気よく地面に座り続けていました。
明智探偵のほうも、根気よく窓から見える机に向かい続けていました。

午後はずっと一人の訪問客もありませんでしたが、夕方になって一人の異様な人物が、明智邸の低い石門の中へ入っていきました。
その男は伸び放題に伸ばした髪の毛、顔中を薄黒く覆う無精ひげ、汚れた背広をメリヤスのシャツの上に直に着て、形もわからないようなボロボロの鳥打ち帽子をかぶっています。
浮浪人といいますか、ルンペンといいますか、見るからに薄気味の悪いやつでしたが、そいつが門をくぐってしばらくすると、突然おそろしい怒鳴り声が門の中から響いてきました。

「おい、明智! よもやおれの顔を見忘れちゃあいないだろうな。おらは礼を言いに来たんだ。さあ、その戸を開けてくれ。おらは中に入って、おめえにも奥さんにもゆっくりお礼を言いてえんだッ! なんだと、おれに用はねえ? そっちに用がなくっても、こっちには山ほど用があるんだ。さあ、そこをどけ。おらは貴様の家に入るんだ!」

どうやら明智自身が洋館のポーチへ出て応対しているらしいのですが、明智の声は聞こえません。ただ浮浪人の声だけが門の外まで響き渡っています。
それを聞くと、通りに座っていた乞食がムクムクと起き上がり、そっとあたりを見回してから石門のところへ忍び寄り、電柱の陰から中の様子をうかがい始めました。
見ると、正面のポーチの上に明智小五郎が立ちはだかり、そのポーチの石段に片足をかけた浮浪人が、明智の顔の前で握りこぶしを振り回しながらしきりにわめき散らしています。

明智は少しも取り乱さず静かに浮浪人を見ていましたが、ますますひどくなる暴言に、もう我慢ができなくなったのか、
「馬鹿! 用がないと言ったら用がないのだ。出ていきたまえ!」
と怒鳴ったかと思うと、いきなり浮浪人を突き飛ばしました。
突き飛ばされた男はヨロヨロとよろめきましたが、グッと踏みこたえて、死にものぐるいで「ウヌッ!」とうめきながら、明智めがけて組みついていきます。
しかし、格闘となってはいくら浮浪人が乱暴でも、柔道三段の明智探偵にかなうはずがありません。
たちまち腕をねじ上げられ、「ヤッ!」というかけ声とともに、ポーチの下の敷石の上に投げ飛ばされてしまいました。

男は投げつけられたまましばらく痛さに身動きもできない様子でしたが、やがてようやく起き上がったときには、ポーチのドアは固く閉ざされ、明智の姿はもうそこには見えませんでした。
浮浪人はポーチへ上がってドアをガチャガチャといわせていましたが、中から鍵がかけてあるらしく、押しても引いても動きません。
「ちくしょうめ、覚えていやがれ!」
男はとうとうあきらめたのか、口の中で呪いの言葉をブツブツとつぶやきながら門の外へ出てきました。

先ほどからの様子をすっかり見届けた乞食は、浮浪人をやり過ごしてからそのあとをそっとつけていきましたが、明智邸を少し離れたところでいきなり、
「おい、おまえさん」
と、男に呼びかけました。

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