初級翻訳・怪人二十面相 第26話

怪人二十面相

明智小五郎の自宅に電話がかけられました。しかし、ちょうどそのとき名探偵は外務省に出向いて留守中でしたので、代わりに小林少年が出頭することになりました。
やがてほどなく、いかめしい調べ室に、りんごのような頬をした可愛らしい小林少年が現れました。
そして賊の姿を一目見るやいなや、これこそ外務省の辻野氏と偽名を使ったあの人物に違いない、と証言しました。
「わしがほんものじゃ」
「この人でした。この人に違いありません」
小林君はきっぱりと答えました。
「ハハハ……、どうだね君、子供の眼力にかかっちゃかなわんだろう。君がなんといい逃れようとしたって、もうだめだ。君は二十面相に違いないのだ」
中村係長は、恨み重なる怪盗をとうとう捕らえたかと思うと嬉しくて仕方がありませんでした。勝ち誇ったようにこう言って、真正面から賊をにらみつけました。
「ところが、違うんですよ。こいつは困ったことになったな。わしはあいつが有名な二十面相だなんて、少しも知らなかったのですよ」
紳士に化けた賊は、あくまでとぼけるつもりらしく、変なことを言い出すのです。
「なんだって? 君の言うことはちっともわけがわからないじゃないか」
「わしもわけがわからんのです。すると、あいつがわしに化けて、わしを替え玉に使ったんだな」「おいおい、いいかげんにしたまえ。いくらそらとぼけたって、もうその手には乗らんよ」

「いやいや、そうじゃないんです。まあ、落ち着いて、わしの説明を聞いてください。わしは、こういうものです。けっして、二十面相なんかじゃありません」

紳士はそう言いながら、今さら思い出したようにポケットから名刺入れを取り出し、一枚の名刺を差し出しました。そこには『松下庄兵衛』とあり、杉並区にあるアパートの住所も印刷してあるのです。

「わしは、このとおり松下というもので、少し商売に失敗しまして、今はまあ失業者という身の上、アパート住まいの独り者ですがね。昨日のことでした。日比谷公園をブラブラしていて、ひとりの会社員風の男と知り合いになったのです。その男が、妙な金儲けがあるといって教えてくれたのですよ。つまり、今日一日、自動車に乗ってその男の言うまま東京中を乗り回してくれれば、自動車代はタダのうえに五千円の手当てを出すというのです。うまい話じゃありませんか。わしはこんな身なりはしていますけれど、失業者なんですからね、五千円の手当てが欲しかったですよ。その男は、これには少し事情があるのだといって何かくどくどと話しかけましたが、わしはそれをおしとどめて、事情なんか聞かなくてもいいからといって、さっそく承知してしまったのです。そこで、今日は朝から自動車であちこち乗り回しましてな。お昼は鉄道ホテルで食事をしろという、ありがたい言い付けなんです。たらふくごちそうになって、ここでしばらく待っていてくれというものだから、ホテルの前に自動車を止めて、その中に腰かけて待っていたのですが、三十分もしたかと思うころ、ひとりの男が鉄道ホテルから出てきて、わしの車を開けて中へ入ってくるのです。わしは、その男を一目見てびっくりしました。気が違ったのじゃないかと思ったくらいです。なぜといって、そのわしの車へ入ってきた男は、顔から、背広から、外套からステッキまで、このわしと一分一厘も違わないほど、そっくりそのままだったからです。まるでわしが鏡に映っているような、へんてこな気持ちでした。あっけにとられて見ていますとね、ますます妙じゃありませんか。その男は、わしの車へ入ってきたかと思うと、今度は反対側のドアを開けて外へ出ていってしまったのです。つまり、そのわしとそっくりの紳士は、自動車の客席を通り過ぎただけなんです。そのとき、その男はわしの前を通り過ぎながら、妙なことを言いました。『さあ、すぐに出発してください。どこでもかまいません。全速力で走るのですよ』。こんなことを言い残して、そのまま、ご存じでしょう、あの鉄道ホテルの前にある地下室の理髪店の入り口へ、スッと姿を隠してしまいました。わしの自動車は、ちょうどその地下室の入り口の前に止まっていたのですよ。なんだか変だなとは思いましたが、とにかく先方の言うままになるという約束ですから、わしはすぐ運転手にフルスピードで走るように言いつけました。それから、どこをどう走ったかよくも覚えませんが、早稲田大学の後ろの辺りで、後ろから追いかけてくる自動車があることに気づきました。何がなんだかわからないけれど、わしは妙に恐ろしくなりましてな。運転手に走れ走れと怒鳴ったのですよ。それからあとは、ご承知のとおりです。お話をうかがってみると、わしはたった五千円の礼金に目がくらんで、まんまと二十面相のやつの替え玉に使われたというわけですね。いやいや、替え玉じゃない。わしのほうが本物で、あいつこそわしの替え玉です。まるで写真にでも写したように、わしの顔や服装をそっくり真似やがったんです。それが証拠に、ほら、ごらんなさい。このとおりじゃ。わしは正真正銘の松下庄兵衛です。わしが本物で、あいつのほうが偽物です。おわかりになりましたかな」

松下氏はそう言って、ニューッと顔を前につき出し、自分の頭の毛を力まかせに引っ張ってみせたり、頬をつねってみせたりするのでした。

ああ、なんということでしょう。中村係長は、またしても賊のためにまんまといっぱい食わされたのです。警視庁をあげての凶賊逮捕の喜びも、ぬか喜びに終わってしまいました。のちに、松下氏のアパートの主人を呼び出して調べてみますと、松下氏は少しも怪しい人物でないことが確かめられたのです。それにしても、二十面相の用心深さはどうでしょう。東京駅で明智探偵を襲うためには、これだけの用意がしてあったのです。部下を空港ホテルのボーイとして住み込ませ、エレベーター係までも味方につけていたうえに、この松下という替え玉の紳士まで雇い入れて、逃走の準備を万端に整えていたのです。
替え玉といっても、二十面相にかぎっては、自分とよく似た人物を必死に探し回る必要など、少しもありませんでした。
なにしろ、あの恐ろしい変装の名人のことです。
手当たり次第に雇い入れた人物に、自分自身が化けてしまうのですから、わけはありません。
相手は誰でもかまわないのです。
口車に乗せやすそうな、お人よしを見つけさえすればよかったのです。
そういえば、この松下という失業中の紳士は、いかにもお気楽で人のよさそうな人物に違いありませんでした。

二十面相の新弟子

明智小五郎の住宅は、港区竜土町の静かな屋敷街にありました。
名探偵は、まだ若くて美しい文代夫人と、助手の小林少年、そしてお手伝いさん一人の、質素な暮らしをしていました。
明智探偵が、外務省からある友人の家へ立ち寄って帰宅したのはもう夕方でしたが、ちょうどそこへ警視庁へ呼ばれていた小林君も帰ってきて、洋館の二階にある明智の書斎へ入ると、二十面相の替え玉事件について報告しました。
「たぶん、そんなことだろうと思っていたよ。しかし、中村君には気の毒なことをしたね」
名探偵は、苦笑いを浮かべて言いました。

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