初級翻訳・日月ボール 第1話

小川 未明

孝ちゃんの家の近くに住んでいる、自動車屋の主人はとても変わった人でした。
車はボロいものをたった一台しか持っていません。
それを自分ひとりで毎日運転して、町の中を走っているのでした。
この車も、もとはとても立派なものでした。
主人の清(きよし)さんが若いころ、大きなお金持ちの運転手を長年つとめていて、仕事をやめるときにそのお礼として、お金持ちがその自動車をくれたのでした。
それから、いったい何年たったでしょうか。
欲のない清さんは、お金をためるということをまったくしませんでした。
自動車はだんだん古くなり、あちこち破れてボロボロになっていきましたが、新しい車を買うお金なんてありませんでした。
そんな清さんには、おもしろくて不思議な話がたくさんありました。

ある日のこと、清さんがヒマで困っていました。
そこへ、きれいなモダンガールがやってきました。
「汚い自動車ねえ。でも、いいわ、すぐに乗せてちょうだい」
と、その女の人は言いました。
「お嬢さん、見た目はともかく、走るのには変わりありませんよ」
と、清さんはニヤニヤしながら口答えをしました。
自動車が走っているあいだに、きれいなお嬢さんは真っ赤な手さげかばんをあけて、香水のびんを取り出しました。
その香水の匂いがものすごくいい香りだったとみえて、清さんは運転しながらまるで夢を見ているような気持ちになり、自分がいまどこを走っているのかもわからなくなるほど、ぼんやりしてしまいました。
そのうちに、まるでくぎでも踏んだかのようなすごい音がして、タイヤがパンクしてしまいました。
清さんはびっくりして車から降り、あたふたしながらもやっとの思いでタイヤを直して、さあ出発しようと振り返ってみると、いつの間にか、あの女の人はきれいさっぱり消えていなくなっていたのです。
「まるで、キツネに化かされたみたいだったよ」
思い出すたびに、清さんはおかしそうに笑うのでした。

かと思えば、また別のある日には、みすぼらしい格好をしたおじいさんが店に入ってきて、
「すこし遠いんだが、このお金だけで連れていってくれないか。孫が急病だと知らせがあったんだが……」
と、困り果てた様子で頼んできました。
「行きましょう!」
と清さんは快く引き受けて、そのおじいさんを車に乗せて走ってあげたこともありました。

清さんは、働いて手に入れたお金はみんなお酒に使ってしまいました。
お酒に酔っているときには、だれにでもおもしろい話を聞かせてくれました。
でも、その中には、「本当かなあ?」と信じられないような話もありました。
子どもが好きだった清さんのところへは、近所の子どもたちがよく遊びにやってきました。
「おじさん、僕を自動車に乗せてよ!」
子どもたちはわがままを言いました。
「よし、こんどはみんなをいっしょに乗せて、山へでも連れていってやろうなぁ」
「いつ連れていってくれるの?」
「それはわからないな、秋がいいかなあ」
こんなふうに言って、子どもたちをいつも喜ばせていました。

そのころ、学校の子どもたちのあいだでは、「日月ボール(じつげつぼーる)」というおもちゃが大流行していました。
こういう遊びというのは、たとえばコマにしても、ピストルにしても、「流行ったかと思うとすぐすたれ、すたれたかと思うとまた流行り出す」というふうなものでした。
ある日、孝ちゃんは学校から帰ってくると、日月ボールを持って外へ出ました。
そして、自動車屋の前を通りかかりました。
ちょうどそこに清さんがいました。
「おっ、うまくできるかな?」
孝ちゃんを見て、清さんはそう言って笑いました。
「ほかの技はできるけど、『突っ剣(つっけん)』だけはなかなか難しいんだよなあ」
「なにかな、つっけんって? 棒に球をスポッと通すやつ?」
「そうそう、ちょっとやってみるかい……?」
孝ちゃんは一生懸命になって、糸の先についている木の球をピュッと飛ばし、棒のとがった先に突き刺そうと挑戦しました。
「穴に玉を入れるほうは、うまくできるかい?」
「うん、それなら簡単さ、朝飯前だよ!」
孝ちゃんは得意になって、うまくやってみせました。
すると清さんは、孝ちゃんに、この日月ボールにまつわる次のようなおもしろい話をして聞かせたのです。

それは清さんがまだ若いころのこと、あっちの山を越えたことがあったそうです。
ものすごくいいお天気の日で、空はどこまでも晴れ渡り、雲の影ひとつありませんでした。
山や谷の木の葉は、太陽の光を浴びてキラキラと輝いていました。
ちょうど高い山の頂上あたりにさしかかったとき、一人の男が石に腰をかけて、なにやら一生懸命に熱中しているのが見えました。
よく見ると、なんと金色に光り輝く日月ボールを使って、熱心に練習をしているのでした。
「こんなところで、いったい何をしているんだろう?」
清さんは、その男が頭のおかしい人(きちがい)なんじゃないかと急に怖くなり、慌てて急いで山を下りてきたのだと言いました。
「おじさん、どうしてあんな山の上で、日月ボールなんてやっていたんだろうね?」
「だから、頭がおかしい人だと思ったのさ」
「本当に、おかしな人だったのかな?」
「それはわからないよ」
「どうして、そのボールはあんなに金色に光っていたんだろう?」
「きっと金粉でも塗ってあったんだろうさ。そうでなければ、重たくてそんな山の上で練習なんかしていられないからな」
「なんだか不思議だなあ……」
「ああ。それからというもの、おじさんは夜になってあっちの空を見上げ、星がピカピカ光るのを見るたびに、あの男が今でもあの高い山の上の石に腰をかけて、ひとりで日月ボールをやっているんじゃないかって、そんな気がしてならないんだよ……」清さんは、そんな話をしました。
孝ちゃんは、たとえ気がふれていたにしても、どうして一人でわざわざそんなところへ行ったのだろう? そしてそのあと、その人はどうなったのだろう……と、考えずにいられませんでした。
「おじさん、やっぱり頭のおかしい人にちがいないよ」
「いや、そうじゃないかもしれないぞ」
「そうじゃないのなら……」
「もしかしたら、孝坊みたいに、だれも行かないような山のなかで、一心不乱に日月ボールがうまくなろうと練習していただけなのかもわからないじゃないか」と、清さんは笑いました。
「だって、そんな人いないよ」と、孝ちゃんは言いました。
清さんは、そのあとも、あの男によによく似た男を見たことがあると言うのです。
それは、ある小さな町の祭りの日でした。
神社の境内に、見世物小屋や食べ物の屋台が並んでいるそのなかにまじって、すこし年のいった男が、日月ボールを売っていたというのでした。
その男は、赤い日月ボールを手に持って、それは上手に、ポン、ポンと受け止めていました。
「さあ、だれでもすぐにうまくなれますよ。
こうやって、一度も落とさずにうまくやれたら、ここに並べてある外国の切手でも、お金でも、また水晶やさんご、なんでも欲しいものをあげます。
はやく日月ボールを買って練習しなさい。

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