「あれっ、ここに寝ていた患者さんはどうしたの?」
りんごみたいに血色のいい看護師さんが、大きな声で言いました。
彼女が立っている目の前には、誰もいない、ぽっかりと空っぽのベッドがありましたね。
「ねえ、あなた。
知らない?」
彼女は、すぐ近くにいた顔色のすぐれない看護師さんに尋ねました。
「あら、あたし知らないわよ」
そう言って編み物をする手を止めたその人は、シーツがぐしゃぐしゃに乱れているベッドの上を見ました。
「あら、本当だ。
いないわねえ」
「ど、どこへ行っちゃったのかしら」
「お手洗いに行ったんじゃないの?」
「ああ、お手洗いね。
そうかしら……でも変だわ。
この患者さん、お手洗いに行っちゃいけないことになってるのよ」
「まあ、どうして?」
「どうしてって、この方はつまり……その、痔がひどいのよ。
それでラジウムで治療(や)いているの。
わかるでしょ?
つまりおしりにラジウムを差し込んであるから、お手洗いに行きちゃいけないのよ」
「治療のまっ最中だからなんだねえ」
「それもそうなんだけどさ、もし用を足しているあいだに、下へポロッと落ちちゃったら、そのラジウムはとっても小さいから、どこへ行ったかわからなくなっちゃう心配があるでしょ」
「そうだねえ。
ラジウムってすごく高いんでしょ?」
「うん。
婦長さんが言ってたわ。
あの鉛筆の芯くらいの太さで、長さはほんの一センチしかないのに、値段にすると五万か六万円もするんだって。
ああ大変、あれが無くなったら一大事だわ!
あたし、お手洗いに行って探してくる!
だけどもし万が一見つからなかったら、あたし、どうしたらいいんだろう……」
「そんなこと言ってる暇があったら、早く行って探してきなさいよ!」
「そうだわ、ああ、大変!」
りんごみたいに血色のよかった看護師さんも、急に青森の特産品みたいに青白い顔になって、アタフタと部屋の外へ飛び出していきました。
だけど彼女は、出ていったと思ったら、五分も経たないうちにすぐに戻ってきました。
戻ってきたというより、むしろ飛び込んできたと言ったほうがぴったりするくらいの慌てようです。
その顔色はというと、もうまったく血の気がなくて真っ青でした――。
「ああーら、どこにもあの人いないわ!
あたし、どうしよう……ああーっ!」
彼女は、もぬけの殻となったベッドの上にバタリと倒れこむと、まわりの目も気にせずおいおい泣き出してしまいました。
その変な泣き声にびっくりして、婦長さんが走ってやってきます。
ほかの仲間たちも集まってきます。
ついには医局のドアが開いて、医局長をはじめとするお医者さんたちが、白い手術着をヒラヒラさせながら、
「なんだなんだ!」
「どうしたどうした!」
と、泣き声がするほうへ飛び出してきました。
それからの病院の中の大騒ぎといったら、わざわざ説明するまでもありませんよね。
なんたって、今のお金でいうと大変な価値のあるラジウムをおしりに挟んだままの患者さんが、行方不明になったというのですから。
患者さんのことはともかく、ラジウムだけでもそのへんの廊下に落ちていないだろうかということで、お掃除の係りの人はもちろん、看護師さんたちまで総出で探し回りました。
「ない……」
「どこを見ても見つからないぞ」
「困ったわねえ。
でも、探しているものが小さすぎるんだわ」
そのうちに、廊下に大きな貼り紙が出されました。
「懸賞」と赤インキで二重丸が書かれた見出しで、「ラジウムを発見した者には、金五百円也を差し上げます」と、勢いのある筆の文字ではっきりと書いてありました。
この貼り紙が出たことで、騒ぎはますます大きくなりました。
だけど、結局のところ、わからないものは最後までわかりませんでした。
五百円という高額な懸賞金の力をもってしても、ラジウムは出てこなかったのです。
なんたって太さは鉛筆の芯くらい、長さはほんの一センチほどだというのだから、廊下に落ちたら風に飛ばされてしまうだろうし、トイレの中にポチャンと落ちてサーッと流されてしまったらなおさら行方がわからなくなるだろうし、おまけに患者さんの体内に入ったままだったとしたら、その患者さんがどこに行ったかわからないかぎりどうしようもありませんでした。
病院のある部屋では、責任者たちによる緊急会議が開かれました。
結局のところ、原因としては「ラジウムを盗むつもりでやってきたのだろう」という説が一番有力でしたが、婦長さんなどは、「患者さんが知らずに三十分以上もあのラジウムをおしりに入れたままにしていたら、ラジウムのせいでしっぽのあたりが取り返しのつかないほどただれて、ついには命に関わるんじゃないか」と心配していました。
だけど、いったい誰が盗んでいったのか、それだけは誰にもわかりませんでした――。
さて、こんな事件について、今でもみなさんは少しは記憶に残っているのではないでしょうか?
あの「ラジウム入り患者の失踪事件」というニュースが新聞に載ったのは、もう今から五年ほど前のことでした。
あの事件に興味を持って、その後のニュースを楽しみにしていた人もいることでしょう。でも、そういう人たちはきっとがっかりしたに違いありません。
なぜなら、あれからあと、あの患者さんが捕まったという話もなければ、用務員さんがラジウムを見つけて五百円をもらったという記事も出なかったからです。
あの事件のニュースはそれきりで、その後の物語はプツリと途絶えたままになっているのです。五年ほどがすぎた、いま――。
なんと、あの「ラジウム入りの患者が消えた事件」の本当のわけと、そのあとの物語をみんなにお話しできるチャンスがやってきたんだ。みんな、聞いてくれてありがとう!
あのとき、ものすごく高いお値段だったラジウムはどうなったのかな?
そして、あのラジウムをおしりに挟んだまま消えちゃった患者さんは、いったいどうなったんだろう?
患者さんのことについては、なによりも先に「安心してください」って言いたいな。
あの優しかった婦長さんや、新聞記者のお兄さんが心配してくれたことは、結局ぜんぶ「とりこし苦労」に終わったんだから。
つまり、あの患者さんはラジウムのせいで命をとられることもなく、無事に助かったんだよ。
それどころか、いまも元気いっぱい!
元気いっぱいどころか、こうやって原稿用紙に向かって、自分でペンを動かしているところなんだ。
そう、あの消えちゃった患者っていうのは、ほかならぬこの私なのだから。
自分の本当の名前を名乗ったってかまわない。
私の名前は「丸田丸四郎(まるたまるしろう)」――これが私の本当の本名さ。
こうして自分の名前を言っちゃったら、みんなの一番最初の質問は決まりきっているよね。
「どうしてきみは、病院のベッドからいなくなっちゃったんだい?」ってことだろう。
これについては、正直にこう答えたいと思う。
「それはあらかじめ決めてあった、計画どおりの順番だったのさ……」ってね。
あらかじめ決めてあった順番どおり。
つまり、ラジウムをおしりに入れられて、ほんのちょっとの間だけ、じっとベッドで寝かされるのを待っていたんだ。
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