だけどぼくは、とくに悲しいとも思わなかったし、なんとも感じませんでした。
新しく引っ越したお家のほうが新しくて明るかったし、お座敷からすぐに池のコイの姿が見られたからです。
ただ一つだけ、なんだか不思議に思ったことがありました。
それは、昔の大きなお家が、屋根の瓦(かわら)ははがされ、壁はドカンと落とされ、柱はバタリと倒されて、大勢の人たちがワイワイと大騒ぎしながらせっせと働いているというのに、お父さんもお母さんも、その元の家のほうへは一度も行こうとしなかった、ということです。いつもなら、お家に出入りする職人さんたちが来ると、お父さんは仲良く仕事を指示して、お母さんは女中さんに手伝ってもらってご馳走をたくさん振る舞ったものでした。
だけど、あのときばかりは様子がまったく違っていました。
それに、大勢の作業員の人たちも、ぼくたちの新しい家の方には顔を一切出しませんでした。
まるで、お互いの間には何の関わりもないかのようだったのです。
ぼくが一人でそっちへ行って、家が壊されていく様子をじっと眺めていると、人たちがじろじろとぼくの方を見てくるので、急いで新しい家の中に引っ込んでしまいました。
すると、お母さんがこう言いました。
「もうあそこへ見に行ってはいけませんよ。」
ぼくには、それがどういう意味なのか全然分かりませんでした。
古い家が壊される一月ほど前から、お父さんはほとんど外に出かけなくなっていました。
それと同時に、お客さんもすごく減っていきました。
ときどき、村に住む「I」と「K」という二人の人がやって来ました。
他の人を連れて来ることもありましたが、たいていはその二人きりでした。
そして、お父さんとお母さんと四人で、夜遅くまで何かをずっと相談していました。
また、東京のほうからは「S叔父さん」が何度もやって来ました。
だけど、そんな大人たちの事情は、ぼくの子供心には何の関係もありませんでした。
ただぼくが悲しかったのは、お父さんが急に弱ってきたことでした。
いつの間にかお父さんは、布団に横になることが多くなっていたのです。
咳もひどくなりました。
そして、よく眉間に深いしわを寄せて、黙り込んでいました。
ある朝、ぼくはいつもより寝坊をしてしまいました。
前の晩にめずらしく大勢のお客さんがいて、なかなか眠れなかったからです。
目を覚ますと、すでに日は高く昇っていました。
ぼくはハッとしました。
学校に遅刻してしまうということが、頭いっぱいに広がったのです。
すぐに飛び起きて時計を見ると、もう八時をすぎていました。
ぼくは顔も洗わないで、急いで学校の道具をそろえました。
そこへ、お母さんがやって来ました。
「もう起きたのですか」と、お母さんはぼくに言いました。
「どうしようかしら、学校に遅れちゃった!」
そう言って、ぼくは泣き出しそうになりました。
「いいのよ、いいのよ」とお母さんは繰り返し言いました。
「もう今日は時間が遅いから、学校はお休みしたらいいでしょう。さっきお友達が誘いに来てくれたから、『今日は体調が悪くて寝ています』って伝えておきました。今日はもうお休みしなさい」
ぼくはそんなお母さんの顔をじっと見つめました。
お母さんはこれまで、そんなことを言ったことが一度もありませんでした。
ぼくが寝ていると朝早くから起こしてくれたし、「学校に遅れてはいけないよ」と言って、自分で教科書やノートをカバンに包んでくれたりしたのです。
「一日くらい休んだって何ともありません。今日学校で習うところは、あとでお母さんが教えてあげますからね」と、お母さんはまた言いました。
お母さんは顔が青白くなっていました。
目が少し充血していました。
それなのに、ものすごくやさしい表情をしてぼくを見つめていたのです。
ぼくの目から涙があふれてきました。
ぼくはうつむきながら答えました。
「本当に、学校を休んでもいいの?」
「ええ。一日くらい休んだって、そんなに心配しなくていいのよ。さあ、顔を洗いなさい。もうすぐご飯ですから。それに……さっきお父様があなたが起きるのを待っていらしたから、お父様のところへ行ってごらんなさい。お庭のほうにいらっしゃるでしょう」
そう言いながら、お母さん自身も目に涙をいっぱいためていました。
ぼくはそれを見て、また悲しくなりました。
きっと何かとんでもなく悪いことが起きたんだな、とぼくは思いました。
ぼくは急いで顔を洗いました。
そして、お庭の方に出てみました。
池の端から少し坂を上るとそこが庭になっていて、その向こうには、元の家が取り壊されたあとの広い広場がありました。
お父さんは、その広場の中で杖をついて立っていました。
ぼくは庭の植え込みの間をかき分けて、お父さんのそばへ駆け寄ろうとしましたが、急にびっくりして足を止めました。
朝日の光が、お父さんの姿を後ろから照らしていました。
その光の中で、お父さんの長く伸びた髪に、白髪がものすごく増えていることにぼくは初めて気がつきました。
赤みがかった髪の毛の中に、数え切れないほどの白髪が銀色にキラキラと輝いていたのです。
その姿が、ぼくになくなっていたおじいちゃん――写真で見たことのある――のことを思い出させました。
ぼくがどうしようかと立ち止まっていると、お父さんはぼくの方をふり返って見ました。
そして、弱々しい微笑みを浮かべました。
ぼくはお父さんのそばへ駆け寄りました。
「今日は学校を休んでもいいの? お母さんがそう言ったけれど……」
「ああ」
お父さんはそれだけしか答えませんでした。
お父さんはやがて、昔の家があった広場の方へ歩き出しました。
ぼくも黙ってその後をついて行きました。
お父さんの顔は、これまで見たこともないくらい晴れやかでした。
病気のせいで少し赤みを帯びた頬の皮膚が、初夏の光の中ですっきりと透き通って見えました。
しばらく歩いていると、お父さんは突然立ち止まって、「新しい家と元の家と、どちらが好きか?」とぼく尋ねました。
「新しい家の方がいい!」と、ぼくはすぐに答えました。
お父さんは目を大きく見開いてぼくの顔をじっと見つめ、「本当か?」と聞き直しました。
ぼくはすぐに大きくうなずいてみせました。
するとお父さんは何か言いかけたのですが、その言葉がぼくの耳に届く前に、激しく咳き込みました。
それから、ぼくたちは家に戻りました。
そしてお母さんと一緒に三人で朝ごはんを食べました。
ごはんのあと、お父さんはすぐに布団に入りました。
その日は、本当に不思議な一日でした。
お父さんは横になりながら、じっと目を開けたままでいました。お父さんの顔には自然な明るさがあり、瞳にはどこか澄んだ切なさが浮かんでいました。
お母さんは金庫の中からいろんな書類を出してきて、お父さんの枕元で調べているようでした。
それが終わると、今度はタンスの中の片付けを始めました。
時々、ハンカチで目を拭いていました。
ぼくは一人で広いお屋敷の中を歩き回りました。
学校を休んだことは、いつの間にか一種のワクワクする楽しさに変わっていました。
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