お友達みんなが狭い教室の中でじっと座っている間に、自分だけはこの広いお屋敷の中を自由に走り回れることが、楽しくてたまらなかったのです。
大きなお庭の隅々まで歩いていると、ぼくの心はすっかり解放されて、のびのびとした自由を感じました。
竹やぶの中で珍しい花を見つけたり、蔵の陰でびっくりするほど大きな果実の木を見つけたりしました。
ただ、家が壊されたあとの広場だけは、あまり好きではありませんでした。
そこは何となく寂しかったからです。
だからぼくは、大きな楠(くすのき)の木の陰で、長い時間をかけて篠竹(しのだけ)を切って弓を作ったりして遊んでいました。
その日も、ぼくはお父さんとお母さんが心を痛めていることには、ほとんど無関心でした。
まわりでいろんな出来事が起きているのに少しも気にかけず、ただ自分一人の遊びや気持ちばかりを追いかけてしまうのは、ぼくの子供のころの悪い癖でした。
(のちに大人になってから、お父さんやお母さんに対して「どうしてあんな風だったんだろう」と強い後悔と自責の念を覚えたのは、まさにこの時のことについてでした。)
けれど、そんな子供の癖のせいで、その日の夜になってからお父さんやお母さんから家の大変な事情を聞かされたときも、ぼくはまったく呑気に構えていました。
その晩にどんな話を聞いたのか、今のぼくにはもうよく覚えていません。
それに、当時のぼくにはあまりにも難しい話だったのです。
結局のところ、ぼくが理解したのは、お父さんがものすごい借金を抱えていること、東京の叔父さんと村の「I」さん、そして「K」さんがすべてを整理してくれていること、そして元の家が壊されて運び出されたのもお金を貸していた人たちの仕業だった、ということでした。
どうしてそんな大変なピンチになってしまったのか、当時のぼくには分かりませんでした。
ただ今になって考えてみると、すべてはお父さんがあまりにも優しすぎる、まるでお殿様のような夢想家だったからなのだと思います。
お父さんは、ぼくにはよく分からない難しい話を長々としながら、神経質そうに額にしわを寄せ、お母さんは時々涙ぐんでいました。
なぜお父さんやお母さんがそんなに悩んでいるのか、子供のぼくにははっきりと分かりませんでした。
退屈な話が終わると、ぼくは平気な顔でこう言いました。
「お金なんかすっかり無くなったってかまやしないよ。そんなことはどうだっていいや!」
するとお母さんは目をしばたたかせ、大粒の涙をポロリとヒザに落としながら、ふっと微笑みました。
ぼくは、その涙の中の微笑みがとても美しいものだと感じました。
お母さんに対してそんな清らかな美しさを感じたのは、人生でこの時と、もう一度だけ――亡くなったお父さんのお墓の前にやお母さんが立ったとき――の、二度だけでした。
ぼくの言葉を聞くと、お父さんはすごく暗くてどんよりした顔をしました。
ぼくには、何がお父さんの機嫌を損ねたのかどうしても分かりませんでした。
それでもお父さんはその晩、少しお酒を飲んで、ぼくにも二、三杯飲ませてくれました。
二、三杯のお酒で、ぼくの頭はすっかりボーっとしてしまいました。
そして火鉢のそばに寝転がりながら、お父さんとお母さんの話をぼんやり聞いていました。
何の話なのかはよく分かりませんでした。
そのうちに、「楠(くすのき)」という言葉が二、三度、ぼくの耳に入ってきました。
ぼくはガバッと起き上がりました。
「楠だけは取っておきましょうよ! 何もかも無くなってもいい。ただ楠だけ残っていれば……!」
自分でそう言ってしまってから、ぼくはびっくりしました。
何か言ってはいけないことを言ってしまったような気がしたからです。
けれど、ぼくの言葉を聞いて、お父さんは急に顔をパッと和らげて言いました。
「そうだ、楠だけは残しておきたい。裁判がうまくいくといいんだが……。なに、きっと大丈夫さ」
それでぼくはほっと安心しましたが、同時に、お母さんがものすごく悲しそうな目をしているのに気がつきました。
ぼくはお父さんの言葉を信じ込み、「楠だけは大丈夫なんだ」と思い込みました。
そしてすっかり安心してしまったのです。
その後、家にはお医者さんや知り合いの来客がさらに減りました。
その代わり、「I」さんと「K」さんは毎日のようにやって来ました。
けれど、ぼくはもうそんなことを気にしませんでした。
「何もかも無くなっても、あの楠の木だけは残るんだ」ということが、ぼくの子供の空想をワクワクさせました。
それは、ぼくがいつだって憧れていた「自由」な気持ちと同じようなものだったのです。
ところが、ある日学校から帰ってくると、ぼくは思いがけない光景に出くわしました。
家には「I」さんと「K」さん、そしてほかに村の人が四、五人来ていて、お酒を飲んでいたのです。
みんな縁側に腰掛けていました。
ぼくはその前を小さく頭を下げて、お家の奥に入ろうとしました。
すると、ちょうど真正面からお父さんが出て来ました。
お父さんは長い口髭の下で、唇をきゅっと強く結んでいました。
そしてぼくは、その時ほどお父さんの額が広々として高くそびえているように見えたことはありませんでした。
お父さんはぼくの姿を見ると、ほんの一瞬だけ眉を寄せて、「ただいま」とぼくが言う隙すら与えずに、こう怒鳴ったのです。
「お前は奥に引っ込んでいなさい!」
お父さんの声は鋭く、そして震えていました。
ぼくはびっくりしてその場に立ちすくみましたが、お父さんは振り返りもしませんでした。
そして縁側から庭へ降りて、向こうの方へ歩いていってしまいました。
村の人たちもそのあとに続きました。
ぼくは慌てて奥へ駆け込みました。
お母さんは長火鉢のそばにじっと座っていました。
ぼくを見上げたお母さんの顔には、血の気がほとんどありませんでした。
ただ、目だけがキラキラと光っていました。
そして、火鉢の中には火も入っていませんでした。
それを見た瞬間、ぼくは胸がいっぱいになりました。
そのままお母さんのヒザに飛び込むと、お母さんはギュッと強くぼくを抱きしめてくれました。私達は長い間そのままじっとしていた。
母は殆んど息さえも止ったかと思われるほどだった。
私を抱きしめていてくれる胸も両腕も冷たかった。
私は母の胸に顔を押し当てたままいつのまにか涙を流していた。
母はいつまでたっても何とも云わなかった。
母は私の背中に垂れている頭を時々挙げた。
そしてその度毎に溜息をついた。
私はそっと下からその様子を窺った。
母は柱時計を見てるのだった。
一、二分間毎に柱時計を見ては溜息をついた。
そしてやがて云った。
「さあ、お母さんは一寸用がありますから。」
私は母の膝を離れて立ち上った。
もう初めの感動も涙も静まっていた。
そして袴をぬいでいると、楠ということが突然私の頭に閃いた。
「楠のことに違いない」と私は思った。
するとじっとして居れなかった。
母が勝手元に立って行った隙を窺って、私は家を飛び出した。
そして庭をぬけて楠の方へ行こうとすると、私の足は其処に竦んでしまった。
楠のまわりに一群の人が居た。
一方に先刻の村の人々が立っていた。
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