初級翻訳・楠の話 第4話

楠の話

皆恐ろしい顔をして前方を睥んでいた。
それらの視線の前には、私の見知らぬ大勢の人が、地面に蓆を敷いて蹲っていた。
着物を着てる者もあれば、腹掛に脚絆をつけてる者もあった。
皆逞しい身体をしていた。
蓆の片隅には種々な道具が置いてあった、鋸、斧、縄、梯子など。
それが皆恐ろしく大きい物ばかりだった。
村の人もそれらの人も皆帽子をぬいでいた。
そして両方の群の間に、楠を背にして父が立っていた。
少し禿げ上った広い額、鋭い眼、高い鼻、濃い赤い髯、きっと結んだ口、そしてそれ全体を包む痩せた透明な頬の皮膚。
私は庭の楓の大きい幹に身を隠して、息をつめてその光景を見守った。
欝蒼たる楠の枝葉は深い影で一群の人々を包んでいた。
誰一人動く者もなかった。
深い沈黙と影とが皆の上に蔽い被さっていた。
その真中に、苔生した楠の幹を背景に、父の姿が地からつき立ったようにして浮んでいた。
その眼はじっと地面に据えられていたが、広い額は空の方を向いていた。
私はそれほど荘厳な父の姿を見たことはなかった。
否それほど荘厳な人間の姿を見たことはなかった。
私は殆んどそれが自分の父であることを、あの病み衰えた父であることを、忘れようとした。
楠の葉が一枚ひらひらと舞い落ちた。
そのために一層沈黙の度が深くなった。
それと共に、私の心に或る恐怖の念が萠しかけた。
今にもその沈黙が破れたら、大変なことになりそうな気がした。
その時、見知らぬ人々の群の方から、一人の年取った男が立ち上った。
私は思わず楓の後から駈け出そうとした。
然しすぐにほっと安心した。
男は父の前に丁寧に頭を下げた。
それから彼は何か暫く饒舌った。
すると父は二、三言それに答えたらしかった。
声は私の所まで達しなかった。
男は父の答えをきいて、仲間の者等の方へ向いて屈んだ。
皆その方へ寄って行った。
そして彼等は相談を初めた。
暫くすると、前の男がまた立ち上って父に何か云った。
父も何か答えた。
すると男は立ったまま、仲間の者等に何か云った。
そして一人の若い男が立ち上って、父の方へ一寸頭を下げ、大急ぎに其処を離れて門の方へ出て行った。
外の者は皆、煙草入れを腰から取って煙草を吸い初めた。
其時父は初めて楠の幹から離れ、村人の方へ向いた。
父の姿は急に病気らしい弱々しさに返った。
村人は父を真中にして何やら小声に囁き交わしているらしかった。
それからしばらくそのままの光景が続いた。
私は初めてほっと吐息をつくと、身体がしっとり汗ばんでいるのに気付いた。
初夏の太陽が私の頭から背中をじかに輝らしていた。
そして私はその楓の後ろから出るか、声を立てるかしたくなった。
然し私は父を恐れた。
もし私が其処に忍んでいることを父に見付かったら、何かひどいことが起りそうな気がした。
私はじっと我慢した。
そしていつのまにか其処に屈んでしまって、楓の根元の草をしきりにむしり取っていた。
どの位時間がたったか私は知らない。
大変長いようであるし、また僅かな間のようでもあった。
背広に中折を被った男が一人、自転車で私の家に走り込んで来た。
彼は自転車を中門の所に置いて、真直に父の所へやって行った。
人々はどよめいた。
見知らぬ男等も皆一度に立ち上った。
背広の男と父とは二、三言挨拶を交わしたらしかった。
それから彼は、上衣の内隠しから紙片を一枚出して父に渡した。
父はそれに一通り眼を通して、それから先刻の年取った男にそれを差出した。
彼はそれを暫く見ていたが、また紙片を父に返した。
それから仲間の者等に何か云った。
二、三人の男が彼と一寸押問答をしたらしかった。がやがて、彼等は種々な恐ろしい道具を手に取り上げ、蓆を巻き梯子をかついで、ぞろぞろ門の方へ引上げて行った。年取った男が最後に残って父と一、二言交わした。見知らぬ男等が立ち去ってゆくと、父は改めて背広の男と村人とに挨拶をして、家の方へ皆を連れて行った。其処を去る時、父は一寸楠を見上げた。父の姿は全く元気を失ってしまったかのように痛々しかった。(後で聞いたことだが、背広の男は裁判所から来た者とのことだった。)

 皆が立ち去ってしまった後、私は一人楓の幹の後ろに残された。そして何だか家へははいれないような気がした。村の人達や背広の男が家には居た。そしてまた父や母に逢うのも悪いような気がした。私はその日の夕方まで屋敷のうちに隠れていた。心は云い知れぬ悲しみに鎖されてしまった。倉の後ろや庭の隅や竹藪の中で時間をつぶしながら、時々顧みて楠の梢を仰いだ。然しその根元には近寄らなかった。何だか恐ろしいような気がした。そしてしまいには鶏小屋の前に屈んで、鶏の遊ぶのをぼんやり見守っていた。地に長く印している自分の影がいつのまにか薄らいでゆくのも覚えなかった。

「まあ、此処に居たんですか。」そういう母の声が後ろに響いた。私は喫驚して飛び上った。母はすぐ私の後ろに立っていた。私は飛びつくようにして母の手に縋って、声を立てて泣き出した。

「何にも泣くことはありません。」と母は私の頭を撫でながら云った。「さあお家へ帰りましょう。……今まで何をしていたんです?」

 私は何とも答えなかった。そして母の手に縋ったまま家の中にはいった。父はまだIとKとを相手に座敷で話をしていた。そっと覗くと、坐っているのも大儀そうに見えた。私は父の身体を気遣かった。然しその晩父とは一言も口を利く隙がなかった。母は私に先に御飯を食べさして、早く寝かしてくれた。蒲団の中で私は長い間眼覚めていたが、いつのまにか眠ってしまった。

私が気遣かったことは実際になって来た。父はその日から俄に元気がなくなって、床に就いてることが多くなった。医者の薬は今迄一種きりだったのが、二種になった。然し食事の時には起きて来た。それからまた時々起きては縁側に屈んで池の鯉に餌をやった。私は学校に行く外余り家から出なくなった。もう屋敷の中を遊び廻ることもしなくなった。楠の根元には猶更行かなかった。私はよく父の側についていた。父は寝ながら種々な物語りの本を読んでくれた。疲れると黙ってしまった。すると母が此度は読んでくれた。然しそれらの本も、実は父自身のためのものと云った方が適当だったかも知れない。父自身に向って、或は父自ら或は母が代って読んだ。それらの物語りをきくのと、学校の下調べをするのと、池の鯉を見るのとが、私の日常の仕事となった。鯉はいつまで見てても倦きなかった。

一月ばかりたった或る晩、父は私にこう云った。
「楠も切らなければならないかも知れない。お前に済まないけれど。」

 父が私に許しを乞うような言葉をかけたのは、それが私の覚えてる限りでは初めてだった。楠のことは、私にもいつのまにかそういう運命になるもののような気がしていた。父の言葉をきいて、自分が今迄自ら識らずに感じていた気持ちがはっきり頭に上って来た。私は別に驚きもしなかった。ただ父のその言葉の調子が、私の心を喫驚さした。私は何とも答えないで父の顔を見守った。然し父はそれきり何とも云わなかった。母も黙っていた。父も母もいつのまにか、私と同じような気持ちに浸り込んでいたらしい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました