初級翻訳・鳶と柿と鶏 第3話

豊島 与志雄

 ただし相手が鳶だから、うまくかぶさるかどうかは分からないけれど、その代わり、鳶がちょうど首を突っ込めるくらい網の目は大きくしてあるそうです。
 餌はイワシでした。
「へえー、鳶が魚を食うのかね」
「動物園の鳶は魚を食べています」
 明瞭な答えに吉村は苦笑しました。
 けれど、鳶がかかったらすぐに駆け出していくつもりで、彼は見張りをしているのです。
 相手が猛禽類だから、さすがに少し不安なのでしょうか。
「だが、鳶なんか捕って、一体何にするんだい?」
「ただ生け捕りにすればいいのです」
 それきりで、李は空を仰ぎました。
 空には、鳶が二羽舞っていました。
 青く晴れ渡った空の中で、高く飛んだり低く降りたりしながら、二羽の鳶は寄ったり離れたりして、ほとんど羽ばたきもせず、両翼を真っ直ぐに広げて、ただ浮き動き、舞っているのです。
「眺めている方がいいじゃないか」
「ええ」
「捕らない方がいいじゃないか」
「ええ、捕らなくても、いいのです」
 わざわざ罠を仕掛けたというのに、なんとも頼りない返事でした。
 二羽の鳶はいつまでも舞っていました。
 その舞い方は、まさに「蒼空(そうくう)」そのものという感じでした。空にふわりと浮かび、それでいてしっかりと飛んでいるからだろうか。やがて一羽がゆるやかに羽ばたきだしたかと思うと、高く、高く、青い空の彼方へと昇っていき、もう一羽もそれに続くようにして、山の向こう側へと消えていった。

「先生、柿を食べに行きましょう」

 鳶のあとを見送ってぼんやりしていた吉村へ、李は突然そう呼びかけると、立ち上がって歩き出した。そして、声を低めた。

「鳶のこと、上山さんには黙っていてください」
「なぜだい?」
「びっくりさせてやりたいんです」

 そんなものが捕れるものかと吉村は思ったが、李の言葉をそのまま受け止め、なんだか微笑ましい気持ちになった。そして、二人は君枝のところまでついて行った。

 君枝の庭には、裏口に近い一角に二羽の黒い鶏が飼われていた。植木屋が「黒い鶏の卵は病人に特別いい」と言って、小屋から鶏の世話までしてくれたのだと君枝は言っていたが、それは軍鶏(しゃも)の雑種だったので、吉村は君枝に対するのと同じように、どこか親しめない気持ちでいた。ただ、雄鶏の方は、黒い羽の上に首筋にかかる赤い羽が金色に光り、綺麗だった。

 李はその鶏の囲いを開いて、鶏を呼びながら連れてきた。鶏は広い芝生の上を少しかけ回って、縁側のところまで来ると、投げ捨てられた柿の皮をつついたりした。

「鶏の中でも、軍鶏が一番の食いしん坊なんです」

 李は吉村にそう説明してから、君枝の方に向かって言った。

「毛虫、まだいますか?」
「そうね、いるかもしれないわ」

 庭の片隅にある大きな椿の木へ行って、李はしきりに見上げていたが、やがて巧みに登っていった。君枝も下駄を突っかけてその方へ近寄った。

「どう……危ないわよ」

 上の方でガサガサとやっていたところから、ふいに声がした。

「それ、投げますよ!」
「いやあ、だめよ、だめよ!」

 びっくりするような甲高い声をあげて、君枝は走って逃げた。逃げながら笑っていた。パラパラと、青葉のついた小枝が落ちてきた。

 しばらく静かになったあと、中ほどの大きな枝に李が両手でぶらりとぶら下がった。「あ、危ない!」と叫んで君枝が胸を押さえた時には、李はもう地面に飛び降りていた。コッコッコッコ……と呼ぶ声に鶏が走っていき、椿の葉についた虫を食べているのを、李は満足そうに、君枝は安心したように眺めていた。

 吉村は煙草を吸いながら縁側の端に腰掛けていた。椿の木の下から逃げ出し、「危ない」と叫んだ時までの君枝の様子が、とても珍しいもののように目に映ったのだ。それは全く普通の女性の動作にすぎなかったが、お茶を飲む時の手の動きからちょっとした身振りに至るまで、妙にぎくしゃくした直線的な君枝であるだけに、その普通の動作がかえって際立って見えたのである。

 先日、初めて李と一緒に来た時の素振りまでもが思い出された。先日は虚を突かれた思いだったが、今回はなんとなく楽しく、彼女のために喜んでやりたい気持ちだった。この調子なら、彼女もだんだんと良くなっていくだろうと吉村は考えた。もちろんそれは病気のことではないし、何がどう良くなるのか彼にも分からなかったが、とにかく明るい気分が心に満ちてくるのだった。吉村は仕事を急いだ。仕事が済んだら、二、三日ゆっくりと三人で遊び回ってみたかった。

 そうした矢先に、全く意想外なことが持ち上がった。

 ある夕方、食後の散歩で三人で丘の方から街道へ降りかかる時のことだった。街道の向こうから、正装した巡査と労働者らしい男が、肩と肩をくっつけるようにして歩いてきた。双方から次第に距離が縮まり、男は黒のジャケットに地下足袋を履いており、どうやら朝鮮半島出身者らしいと見分けられた。

 二人の姿は七、八本の杉の木立に隠れたが、そこからまた現れかけた途端、男は二、三歩走り出した。それを片手の捕縄で引き戻されたのか、両腕を広げて横向きになり、そこへ巡査の足払いが決まって、男はばったりと地面に倒れた。

 倒れたものの、すぐ四つん這いになり、突然、吼えるような、喚くような声で叫びだした。襟元を捉えて引き起こされかけても、彼は必死に大地へしがみつくような格好で、その声は明らかに泣き叫びとなっていた。泣き叫びながら、片手と両足で地面を掻いた。

 自転車での通行人が立ち止まり、村から人が走り出てきた。そしていつしか男は叫び声を飲み込み、じっと顔を伏せ、今度は両手を後ろに縛られながら、巡査の先に立って人々の間を歩いていった。それが、吉村たち三人のすぐ前をも通り過ぎた。

 後ろを見送って、しばらく無言で歩いた時、ふいに君枝が李に尋ねた。

「あの男がさっき叫びだしたでしょう、あれどういう意味ですか」

 あまりに場違いな言葉だった。返事がしばらくなかった。

「僕は知りません」
「別に意味はないでしょう」

 吉村もほとんど同時にそう言った。

「あの抵抗も無意味ですわね。……でも、卑怯ですわ」

 返事がなく、彼女はなおも言い続けた。

「先生、そうお思いになりませんか?」言葉の意味なんて、民族によってずいぶんと違いますからね。」

吉村が適当な相づちを打って話を終わらせようとするのをよそに、彼女は考えを続けた。

「あの男だって、捕まったからには、どうせ空き巣か、何か物を盗んだのでしょうけれど、捕らえられて引き立てられていく途中で、逃げ出そうとするなんて、卑怯じゃありませんか。また、中国の方などは、何でも見当り次第のものを持って行こうとしますが、声をかけられると、黙ってその場に置いていきますでしょう。あれだって卑怯ですわ。けれど、その『卑怯だ』という感覚は、日本人だけのものかもしれませんし、中国や朝鮮にもやはり『卑怯』という言葉はあるのでしょうけれど、結局のところ、言葉の意味というか、その内容というか、そういったものが違っているんじゃないかと思うのです。民族の血の問題でございますわね。

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