初級翻訳・海底の魔術師 第14話

江戸川 乱歩

水中電灯です。怪人は水中電灯を持たないで逃げたのですから、それは怪人ではありません。
いったい何者でしょう?
「ああ、わかった。僕の仲間があとから潜ってきたんだ。そして怪人を見つけて追いかけているのだ」
潜水夫はそう思ったので、急いでそちらへ近づいていきました。
さっき潜水ヘルメットの中の電話で、ハヤブサ丸に「応援をたのむ」と呼びかけておいたので、もうひとりの潜水夫が潜ってきたのです。
怪人は電灯がないので方角がわからなくなり、コンブ林の中でまごまごしているうちに、ふたりの潜水夫に挟み撃ちになってしまいました。
怪物の目玉のような水中電灯が、右と左からぐんぐん迫ってくるのです。怪人はやっとのことでコンブ林を抜け出し、ゴツゴツした岩ばかりの海底を逃げていきます。ふたりの潜水夫は、五メートルほど後ろからそれを追いかけてくるのです。怪人のダンダラ模様の姿が、大きな岩陰に隠れました。ふたりの潜水夫はそこへ急ぎましたが、陸上のようには速く走れません。やっと岩陰にたどり着いてみると、そこにはもう、何もいませんでした。

どこへ逃げたのかと水中電灯を振り照らして、四方八方をすかして見ましたが、どこにも敵の姿がありません。たったあれだけの時間で、遠くへ逃げられるはずはないのです。といって、この大岩のほかには隠れるような場所もありません。ふたりの潜水夫は「変だなあ!」というような身振りをして、潜水ヘルメット越しの顔を見合わせました。

ふたりがなおもあたりを探していますと、大岩の根元に何かモゾモゾと動いているのに気がつきました。青黒い岩がうごめいているのです。ふたりは驚いてその方へ水中電灯を差し向けました。いや、岩ではありません。岩とそっくりの、なんだか得体の知れない大きなものが、岩の根元を離れてこっちへやってくるのです。

「あっ、カニだっ!」

ひとりの潜水夫が、ヘルメットの中で思わず叫び、その声がハヤブサ丸の受話器にけたたましく響きました。岩と見えたのは、一匹の巨大なカニでした。人間の二倍もある恐ろしいカニでした。一メートルもあるような大きなハサミをぐっと持ち上げて、開いたり閉めたりしながら、八本の足でゴソゴソと這ってくるのです。ゴムまりほどの白っぽい目玉がニューッと飛び出しています。その目玉をグルグル回しながら近づいてくるのです。

「ワーッ!」というような叫び声が二重になって、ハヤブサ丸の受話器に響きました。ふたりの潜水夫が一度に叫んだのです。そして、いきなり逃げ出しました。お化けガニは逃げる潜水夫たちを五、六メートル追いかけましたが、何を思ったのかそのまま向きを変えて、向こうの方へ遠ざかっていきます。そして、闇の中へと溶け込むように見えなくなってしまいました。

ふたりの潜水夫は潜水ヘルメットの中の電話で、すぐに引き上げてくれるように頼みました。ハヤブサ丸の甲板に戻ると、みんなに取り囲まれて海底の出来事を詳しく話しましたが、それを聞いた明智探偵は小首をかしげながら、こんなことを言いました。

「そんな大きなカニが、この辺りにいるはずはない。ひょっとしたら、悪人の手品かもしれないぞ。カニの衣装をかぶって逃げ出したのかもしれないぞ。その衣装は薄い金属かビニールでできているのかもしれない。そして、それを小さく折りたたんで、岩の穴の中に隠しておいたのかもしれない」

「えっ、すると、あのカニの中に金塊泥棒が入っていたのでしょうか」

潜水夫のひとりがびっくりして言いました。

「どうもそうとしか考えられない。岩の陰に隠れたまま消えてしまうなんて、人間業ではできないことだからね。金塊泥棒の怪人団は魔術師だよ。いよいよその本性を現してきたんだ。面白くなってきたね。ぼくは、こういう魔術師みたいな相手でないと張り合いがないのだよ」

名探偵はそう言って、モジャモジャの頭を指でかき回しながら、にっこり笑うのでした。

◇

飛び散る金塊

そのころはもう西の空が、夕焼け雲で真っ赤に染まっていました。太陽は目に見えて沈んでいきます。やがて東の空が真っ暗になり、それが西の方に広がっていって、とうとう夜が来ました。

しかし、敵に金塊のありかがわかったとすると、夜だからといって休んでいるわけにはいきません。明智探偵と船長と、賢吉少年のお父さんの宮田さんなどが額を突き合わせて相談しました。そして、夜でもかまわないから、大きな仕掛けでいっぺんに金塊を引き上げてしまおうということになりました。

ハヤブサ丸には、太い鉄の鎖でできた大きな網のようなものが用意してありました。重い荷物を巻き上げる道具です。それにワイヤーロープをくくりつけてクレーンで海の底に下ろし、金塊の箱を鉄の鎖の網に入れて引き上げようというのです。

それが決まると、敵の魚形艇を警戒している潜航艇に無線で、一度浮き上がるように伝えました。そして十分用意をした上で、鉄の網と一緒に今一度沈み、引き上げが終わるまで警戒に当たらせるわけです。鉄の網には、三人の潜水夫がついていくことになりましたが、それだけでは安心ができないので、あの巨大な鉄の玉の潜水機もいっしょに海底へ沈み、大洋丸の甲板にあるハッチの外で見張りをすることになりました。
すべての船員が力を合わせて準備をしているとき、小林少年が明智探偵にすがりつくようにして、しきりになにかをお願いしていました。
「ねえ、先生、僕を潜水機に乗せてください。
潜水夫のまねなんて、僕みたいな子どもにはとてもできませんけれど、潜水機なら大丈夫でしょう。
技師さんの前に乗ればいいんです。
そのくらいの隙間はあります。
ねえ、先生、頼みます!」
明智探偵は、小林少年を自分の子どものようにかわいがっていましたから、そんなにせがまれると「いいえ」とは言えません。
苦笑いをしながら、技師に相談してみました。
すると、技師もにこにこして、
「そんなに乗りたいのなら、いっしょに乗ってもいいですよ。
少し窮屈ですが、体の小さい小林君なら乗れないこともないでしょう。
かわいらしい小林君といっしょなら、僕も楽しいですよ」
と、承知してくれました。
「小林さん、潜水機に乗るんだって? 僕も乗りたいなあ」
賢吉少年がうらやましそうに言いました。
「君はとても、お父さんが許してくれないよ。
僕より小さいし、冒険に慣れていないからね。
でも最初、僕が乗ってみて大丈夫だったら、この次に君が乗ればいいじゃないか」
小林君はそう言って、賢吉少年をなぐさめるのでした。
三十分ほどで、すべての用意が整いました。
まず潜航艇が沈んで大洋丸のまわりを警戒し、次に潜水機が沈み、最後に鉄の網と三人の潜水夫が沈んでいきました。
小林君はうれしくてたまりません。
技師のひざに抱かれるような格好で体を小さくし、前のガラス窓を一生懸命のぞいていました。
潜水機には、電車のヘッドライトのような強い電灯がついているので、夜の海の中がよく見えます。
窓の外を魚が泳いでいます。
寒天みたいに透き通ったクラゲがふわふわと漂っています。
それらがスーッと上の方へ上がっていくのです。つまり、潜水機の鉄の玉がぐんぐん下がっているのです。
ちょうどエレベーターに乗っているような気持ちです。

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