初級翻訳・海底の魔術師 第3話

江戸川 乱歩

背中のトサカのようなものは、まるで剣を並べたように鋭く尖っています。
大きな尻尾は鉄のワニのようで、動くとガチャガチャと音がしそうです。
一郎君の息遣いが荒くなってきました。
いったい、こんな恐ろしい怪物が太平洋に住んでいたのでしょうか。
深い深い海の底の谷底には、動物学者も知らないような怪物がいると聞いたことがありましたが、それがひょっこり日本の海岸へ姿を現したのでしょうか。
ドキドキする胸を押さえてそんなことを考えていたとき、怪物が身動きをしました。
そして、突然ぐるっとこちらを振り返ったのです。
一郎君は、心臓がのどまで飛び上がるような気がしました。
ああ、その怪物の顔! 一郎君は一生涯、忘れることはできないでしょう。
背中の鋭いトサカが、そのまま頭の上まで続いていました。
ほら穴のように窪んだ大きな二つの目は、リンのように青く光っていました。
口は耳まで裂けており、その唇の間から鋭い牙がニューッと突き出していました。
一郎君はそれを見た瞬間、岩陰に身を隠しましたが、怪物の方はもう一郎君に気づいていました。
「ジャ、ジャ、ジャ、ジャ……」
鉄と鉄が擦れ合うような、気味の悪い大きな音が響いてきました。
あとでわかったことですが、それは怪物の笑い声だったのです。
「カクレテモ、ダメダ。オレハ、シッテイルゾ。デテコイ、ソシテ、オレノイウコトヲキケ」
怪物の声でした。この海底の化け物は、日本語をしゃべるのです。
しかし、発音はひどくあいまいで、やはり鉄が擦れ合うような音なので、よほど注意しないと聞き取れません。
一郎君はもうだめだと思いました。この怪物に捕まえられて海の底へ連れて行かれるのだと、決死の覚悟を決めました。
そして勇敢にも岩陰から顔を出して、怪物とにらみ合ったのです。
「キミハ、ツヨイネ、エライコドモダ。キミナラ、オレノイウコトヲ、ミンナニ、ツタエテクレルダロ。イイカ、ヨクキケ。オレハ、ウミノソコノ、マモノダ。コノムラニハ、モウコナイ。シカシ、マモナク、ニッポンジュウガ、オオサワギニナルダロ、オレガ、シゴトヲ、ハジメルカラダ。ミンナニ、ソウイッテオケ、ウミノソコノ、マモノガ、イヨイヨ、ニッポンニ、ジョウリクシタト、ソウイッテオケ。ワカッタカ」
そして、また「ジャ、ジャ、ジャ……」と鉄の擦れ合う笑い声を立てたかと思うと、ドブンという音がして、たちまち怪物の姿は見えなくなってしまいました。
白波が逆巻く海の中へ、飛び込んだのです。

鉄の小箱

お話は変わって、こちらは東京での出来事です。
大戸村に鉄の人魚が現れてから十日ほど後のことでした。
世田谷区に住んでいる中学二年生の宮田賢吉という少年が、ある夜、友達の家から帰る途中に近道をして、神社の森の中を歩いていました。
外は夜になると誰も通らない寂しい道で、普通の子供でしたら怖くてとても近道などできないのですが、宮田賢吉君は少年探偵団の団員でしたから、暗い森の中を一人で歩くのがかえって面白いぐらいでした。
神社の森は大変広く、大きな木が立ち並び、その枝が空を覆っているため、昼間でも薄暗いほどです。ですから夜になると星も見えない真っ暗闇になります。
ところどころに街灯が立っていますが、その光は木の葉に遮られて遠くまでは届きません。
道端に並んでいる石灯籠が、大きな一つ目の妖怪のように見えて、実に薄気味悪いのです。
賢吉君は口笛を吹きながら足早に歩いていましたが、森の真ん中ほどまで来ると、自分の足音のほかに、もう一つ別の足音が聞こえるような気がしました。
おやっと思って口笛をやめ、耳を澄ましながら歩いていると、確かに別の足音がしています。
自分の足音が森にこだまして二重に聞こえているのではありません。もうひとつの足音はパタパタと、ひじょうに速く、走っているように聞こえます。
賢吉君は試しに立ち止まってみましたが、それでもパタパタという足音は続いています。
やっぱり、誰かが後ろから走ってくるのです。
振り返ると、立ち並ぶ石灯籠のあいだから、黒い影がパッとこちらへ飛び出してくるのが見えました。
大人の男です。
悪者かもしれません。
賢吉君を追いかけてきたのかもしれません。
そして、お金を奪おうとしているのではないでしょうか。
しかし、賢吉君は逃げ出しもせず、じっとその場に立っていました。
男はたちまちそばに近づくと、息を切らしながら言いました。
「おい、君、頼みがある。
大事な頼みがあるんだ。
聞いてくれ」
「ぼくにですか?」
「うん、そうだ。
俺はいま、悪者に追われているんだ。
これを預かってくれ。
俺の命よりも大事なものだ。
君の家はこの近くか?」
「ええ、すぐ近くです」
「それじゃ、これを君の家に持って帰って、家の中の誰にもわからない場所へ隠しておくんだ。
この箱の中には、恐ろしい秘密が封じ込めてある。
悪者どもがその秘密を盗み出そうとして、俺を殺すかもしれない。
もし俺が死んだら、この箱は川の中にでも捨ててくれ。
だが、俺が生きているあいだは、決して捨てるんじゃない。
きっと返しに来るから、それまで誰にも気づかれない場所へ隠しておいてくれ。
わかったな。
俺にとっては命よりも大事な品物だからね。
いいか」
暗闇のなか、そうして話しているうちに、男の顔かたちがぼんやりと見えてきました。
黒い背広を着ています。
しわくちゃになった、汚い背広です。
年は五十歳以上でしょう。
しわの多い、ヒゲ面です。
ヒゲを伸ばしているわけではなく、何日もカミソリを当てていないせいで、無精ヒゲで頬が真っ黒になっているのです。
その薄気味悪い男が、小さな黒い箱を大事そうに両手で差し出しています。
賢吉君は、小箱を受け取っていいものか決心がつかず、返事もしないでいました。すると男はしきりに後ろを振り返りながら言いました。
「早く、早く受け取ってくれ。
俺は悪者に追われているんだ。
いまにもここへやってくるかもしれない。
そうすれば、もうおしまいだ。
悪者はこの小箱を狙っているんだ。
さあ、早く!」
男はそう言ってまた後ろを振り返りましたが、何か遠くの音を聞きつけたのか、ハッとなって叫びました。
「来た。やって来た。
もうだめだ。
一生のお願いだ。
これを持っていって隠してくれ。
決して悪者に取られるんじゃないぞ。
さあ、受け取ってくれ。
そして、そこの大きな木の裏に隠れているんだ。
逃げ出しちゃいけない。
相手は大人だから、逃げたらすぐに捕まってしまう。
いいか、わかったね!」
小箱はいつのまにか、賢吉君の手に渡っていました。
鉄でできているらしく、小さいわりにはひどく重い箱でした。
男が賢吉君の背中をつきとばすようにしたため、賢吉君は思わずよろよろとして、一本の大きな木の幹の裏に隠れました。
そこは街灯の光がまったく届かない真っ暗闇ですから、悪者に見つかる心配は決してありません。
賢吉君が隠れたのを見届けると、男はすぐさま走り出しましたが、よほど疲れているらしく、あまり速くは走れません。
後ろの方からは、勢いのよい足音が迫ってきました。
パッパッパッパッと、恐ろしく速い靴音です。

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