初級翻訳・海底の魔術師 第8話

江戸川 乱歩

俺たちの姿が見えなくなったら、トランクを開けて出してやるがいい。そうすればまた自動車を運転してくれるはずさ」
偽の運転手は自動車から飛び出すと、パタンとドアを閉めました。
そして三人の男は、まるで短距離走の選手のような恐ろしい勢いで、向こう側へと駆け出していきました。
「ああ、取り返しのつかないことをしてしまった。あの大事な鉄の小箱を奪われてしまったんだ。賢ちゃん、あいつらは例の悪党の手下ですよ……。それにしても、明智さんは『僕が守ってあげるから大丈夫だ』と請け合ってくれたのに、一体どうしたというんでしょう。こんなに早く奪われてしまうようでは、明智さんもあてになりませんね。実に残念です」
戸田さんは悔しそうにぶつぶつ文句を言っていましたが、三人の男の姿が見えなくなってしばらくすると、車を降りて後ろのトランクの蓋を開けました。
そこには、あの顔なじみの運転手が、口に猿ぐつわをはめられた状態で、体を丸めて押し込められていました。
賢吉君も車を降りて手伝いました。トランクから出し、猿ぐつわを外してやると、運転手は頭をさすりながら言いました。
「明智さんの事務所の前に車を止めて油断していたら、いきなり後ろからここをガツンとやられ、猿ぐつわをはめられてしまったんです。ものすごく力の強い奴で、どうすることもできませんでした。申し訳ありません。……なるほど、そいつが私に化けてここまで運転してきたのですね」
「そうだよ。君と同じような上着を着ていたから、後ろ姿では見分けがつかなかったんだ。まさか昼間からこんな大胆な真似をするとは思いもよらないからね。さあ、急いで運転してくれ。もう家にも近いんだから、帰ってから警察に電話をかけよう。僕らは大事なものを盗まれてしまったんだよ」
そこで三人は再び車に乗り込みました。しかし、車が走り出そうとしたとき、賢吉少年が「あっ!」と声を上げました。
顔は真っ青になり、目が飛び出しそうなくらい大きく見開かれています。そして、じっと窓の外を見つめているのです。
戸田さんと運転手は驚いて、賢吉君が見つめる先を見ました。
高いコンクリート塀の上から、何かが覗いていました。
後ろには大きな木の枝が青黒く茂っています。その前の塀の頂上に、何やら黒いものが見えるのです。
それは正体不明の、奇妙なものでした。黒い顔の中に、燐(りん)のように青く光る二つの目がありました。耳まで裂けた口があり、その口からはニュッと白い牙が突き出しています。頭には鋭い鉄のトサカが生えています。
鉄の人魚です。
あの怪物が、コンクリート塀の内側をよじ登り、首だけを出してこちらを睨みつけているのです。
「早く、早く……!」
賢吉君は一度出会ったことがあるので、その恐ろしさをよく知っていました。今にも怪物が塀を乗り越えて追いかけてきそうで、運転手をせき立てました。
運転手もこの恐ろしい怪物にはすっかり怯えてしまい、急いでスピードを上げました。車は人通りのない谷間の町を、狂ったように突っ走りました。

ハヤブサ丸

賢吉少年たちは家に帰ると、自動車から飛び降りてお父さんの部屋へ駆け込みました。そして息を弾ませながら、今起きた出来事を伝えました。
お父さんはすぐに警察へ電話をかけてこのことを知らせ、それから明智探偵事務所を呼び出しました。
「なに、鉄の小箱を奪われた? やはりそうでしたか」
電話口の明智探偵はそう言って少し考えているようでしたが、すぐに言葉を続けました。
「それじゃあ、これからすぐにそちらへ伺います。電話ではお話しできないことがあるのです。しかし、どうぞご安心ください」「わたしは賢吉君に、かならず守ってあげると約束しました。その約束は、ちゃんと守っているのですよ」

電話が切れたあと、お父さんは首をかしげました。「明智探偵は、いったい何を言っているんだろう?」
鉄の小箱を守るという約束だったはずです。その小箱は、とっくに悪党たちに盗まれてしまったのです。今さらそんなことを言って、どうしようというのでしょう。

しばらくすると、明智探偵が自動車で駆けつけてきました。お父さんと賢吉君は、明智さんを応接間に案内しておもてなしをしました。
「先ほどの電話は、よく意味がわかりませんでしたが、鉄の小箱をあくまで守り抜くとおっしゃったようですね」
お父さんが、少し責めるような口調で尋ねました。

「ええ、そうです。たしかに、お守りしていますよ」
明智さんは、にこにこと笑って答えました。
「えっ、それは一体どういうわけですか? 鉄の小箱は、悪党たちに奪われてしまったのですよ」
「いやあ、ご心配には及びません。彼らが盗んでいったのは、ただの箱だけです。中身は、ちゃんとここにありますから」

明智さんはポケットから大きな封筒を取り出し、その中から船長の遺言書と航海図、そして保険会社の証書を取り出して見せました。
「あっ、それじゃあ、先生は……!」
「そうですよ。こんなこともあろうかと思って、小箱の中身をすり替えておいたのです。悪党たちが盗んでいった鉄の小箱の中には、白い紙が入っているだけですよ」

賢吉君もお父さんも、名探偵のぬけめないやり方に、すっかり感心してしまいました。
「ああ、そうとは知らずに、失礼なことを言ってしまいました。どうぞお許しください。さすがは明智先生です。これですっかり安心しました」
お父さんは、何度も何度もお礼を言うのでした。

明智さんは、表情を引き締めて言いました。
「宮田さん、悪党どもは、この先さらにどんな企みをするかわかりません。金塊を、一刻も早くこちらで引き上げることにしましょう。遺言書に書いてあることは、嘘ではないはずです。私はさっき、賢吉君が帰ってきてから調べてみたのですが、今から二十年前に潮ノ岬の沖で、東洋汽船会社の大洋丸が沈没したことは事実です。また、そのとき引き上げ作業を試みたものの、失敗したことも間違いありません。やってみるだけの価値はあります。東洋汽船会社と保険会社に相談して費用を出してもらい、もし金塊が見つかったらあなたと会社と保険会社で分けることにしましょう。政府にも許可をもらって、海の底を探ってみてはどうですか?」

賢吉君のお父さんはしばらく考えていましたが、やがて決心したように言いました。
「それじゃあ、ひとつ海底の冒険をやってみましょうか。幸い、この汽船会社と保険会社の重役に友人がおりますし、沈没船引き上げのサルベージ会社にも親しい人がいますから、わたしが相談すればきっと承知してくれるはずです。実は、わたしはこういう冒険が大好きなんですよ」

それから、金塊引き上げについていろいろと話し合っていると、電話が鳴りました。お父さんが立っていって受話器を耳に当てると、なんだか妙な音が聞こえてきました。
「ジャ、ジャ、ジャ、ジャ……」という、鉄をこすり合わせているような気味の悪い音です。
電話の故障かと思いましたが、そうではありません。何かが話しているのです。
「ソコニ、アケチガイルダロ。ハナシタイコトガアル、ヨンデクレ」
それは人間の声とは思えないような、不気味な響きでした。
「あなたは、だれですか?」
「アケチノ、トモダチダ。

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