初級翻訳・鉄塔の怪人 第18話

江戸川 乱歩

さっきからお父さんの姿を見ていたのでしょうが、立ち上がることも声を出すこともできないのです。たった一日の間に、なんだかひどく痩せたように見えます。

「さあ、ここに約束の一千万円を持ってきた」「これをやるから、早く賢二の縄を解いてくれ。」

「よし、金は確かに受け取った。まさか偽札ではあるまいな。君はそんな小細工をするような人間ではないと信じている。だが、もし偽札だったとしても、私にはちゃんと仕返しの手段があるからな。……それじゃ、賢二君は返してやろう。俺はこんな不自由な体だから、君がここへ来て、縄を解いて、勝手に連れて行くがいい。」

いかにも、カブトムシの足では縄を解くこともできないわけです。
そこで高橋さんは、気味の悪いカブトムシのそばを避けるようにして部屋の隅へ近づき、賢二君の縄を解いて手を取り、立たせました。そして、猿ぐつわの手ぬぐいをほどくと、そのまま賢二君を引っ立てるようにして階段を駆け上がりました。外に出ると、いきなりポケットから懐中電灯を取り出し、スイッチを押して原っぱの方に向かって振り照らしました。

それがあいずでした。
闇の中から、草むらを這うようにして黒い影が、あちらからもこちらからも地下室の入り口に向かって駆け寄ってきました。言うまでもなく、中村警部の部下の刑事たちです。少しも音を立てずに、黒い人影が一人、二人、三人、五人、十人と、たちまち地下室の入り口に集まりました。暗くてよくわかりませんが、夕方に御用聞きに化けていた刑事もその中にいるのでしょう。十人が十人とも、それぞれいろいろなものに化けています。刑事や警官らしい姿の人は、一人もおりません。

地下室は一方通行です。この階段のほかに出口はありません。もう怪人は袋のネズミです。こちらは十人、相手はたった一人。いかなる魔法使いの怪人でも、とてもかなうものではありません。声も立てず、刑事たちは次々と階段を降りていきました。

ローソクは元のままに、鈍い光を放っていました。巨大な妖虫も、元の場所にうずくまったままです。刑事たちが中に入っても、相手は少しも動きません。シーンと静まり返っています。あまりに静かなので、なんとなく気味が悪くなってきました。

「ぼくたちは警察のものだ。さすがの怪物も、まんまと罠にはまったな。」

一人の刑事が大声で怒鳴りつけました。すると、ああ、これはどうしたことでしょう。カブトムシが大きな角を振り立てて、いきなり「ワハハハ……」と笑い出したのです。おかしくてたまらないように、いつまでも笑っているのです。刑事たちはあっけにとられましたが、もうグズグズしている場合ではありません。先に立っていた三人の刑事がひとかたまりになって、いきなりカブトムシの体に飛びかかっていきました。

すると、そのとき、実に奇妙なことが起こったのです。カブトムシの体が、三人の刑事の手の下でグニャグニャとへこんでいったのです。刑事たちは倒れそうになるのをやっと踏みとどまり、思わず「あっ!」と驚きの叫び声を上げました。カブトムシの体は空っぽだったのです。中の人間は、いつの間にか消え失せていたのです。

では、今あんな大きな声で笑ったやつは、一体どこへ行ったのでしょう。カブトムシの抜け殻が笑うはずがないではありませんか。

**見知らぬ少年**

地下室には一つしか入り口がありません。その入り口の前には、絶えず人がいました。そこからは絶対に逃げられないのです。では、ほかに秘密の出入り口でもあるのかと、刑事たちは地下室の隅々まで調べましたが、ネズミの出入りする穴さえありません。怪人は煙のように消え失せてしまったのです。怪人は一体、どんな魔法を使ったのでしょうか。

「おやっ、これはなんだろう。」

一人の刑事が、地下室の床に置いてある一つの風呂敷包みを指さしました。それを聞いて、後ろの方にいた高橋さんが、賢二君の手を引いてそこへ出てきました。

「あっ、これは賢二と引き換えに、あいつにやった一千万円の札束だ。」

と、風呂敷の中を調べてみましたが、「確かに、私が持ってきたままそっくり残っています。あいつは肝心のお金を忘れて逃げ出したのでしょうか。これはいったい、どうしたわけでしょう。」

高橋さんは気味悪そうに、あたりを見回すのでした。刑事たちもいよいよ訳がわからなくなって、黙って立ち尽くしていました。そのときです。突然、どこからか変な笑い声が響いてきました。

「アハハハ……、高橋さん、君が悪いのだよ。約束に背いて、刑事なんか連れてくるからさ。」「おれの方では、こんなこともあろうかと、ちゃんと用意をしていたんだ。もう金はほしくない。そのかわり、賢二君を遠くへつれていくのだ。山の中の鉄塔王国へつれていくのだ。……それじゃあ、あばよ。」

そして、ふしぎな声は、パッタリと途絶えてしまいました。だれもいないのに、声だけが聞こえてきたのです。高橋さんも刑事たちも、おばけの声でも聞いたように、ゾーッとして、たがいに顔を見合わせるばかりでした。

それにしても、いまの声はわけのわからないことをいいました。お金はほしくないから、賢二を連れていくというのですが、お金もここにあるし、賢二君もちゃんと、ここにいるではありませんか。あれはいったい、どういう意味なのでしょう。高橋さんはそのとき、ギョッとして、手をひいている賢二君の顔を見つめました。

「ちょっと、その懐中電灯の光を……。」

と、そばの刑事にたのんで、その光を賢二君の顔にあててもらいました。パッと明るく照らし出された顔。少年はキョトンとして、こちらを見上げています。その顔は賢二君にそっくりでした。しかし、どこかしらちがっているのです。じっと見ていると、だんだん、そのちがいがはっきりしてくるのです。

「おい、おまえ、賢二じゃないのか。いったいきみは、どこの子だ?」

高橋さんが、激しい声で、しかりつけるようにたずねました。

「ぼく、木村正一だよ。賢二じゃないよ。」

少年は、やっぱりキョトンとしています。

「どうして、賢二の身代わりになったんだ。わたしは、きみを賢二だと思い込んでいたんだよ。」

「ぼく、学校の帰りに、変なやつにつかまって、ここへ連れてこられたのです。そして、口と手をしばられたんです。でも、がまんしていれば、いまに高橋さんという人が来て、その人についていけば、おうちへ帰れるし、それから、エンジンで動く大きな船のオモチャをくれるっていう約束だったんです。おじさんは高橋さんだから、ぼくに船をくれるんでしょう。」

木村というこの少年は、あまり利口でないようです。怪人にうまくごまかされて、それを信じているらしいのです。

「そうだったか。それにしても、きみはあのカブトムシのおばけが、怖くなかったのかね。」

「怖かったよ。でも、しばられているので、逃げ出せなかった。それに、ぼくをここへ連れてきた変なやつが、逃げると殺してしまうといったんです。」

少年のいうことは、嘘ではないようでした。それならこの少年は、悪人のために、身代わりとして使われただけで、べつに罪はありません。

「よし、それじゃあ、きみは家へ連れていってあげよう。しかし、船のオモチャはだめだよ。

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