しかし、オーストリア側としても、なんとかしてヴェネツィア、ラヴェンナ、アンコナ、タラントなどに勢力を置く敵の封鎖網を打ち破らなければなりませんでした。
もし巧みに封鎖を脱出することができれば、ヴェネツィアやアンコナの両港を襲撃できるだけでなく、ブリンディジやバーリといった無防備な港も、砲火の危険にさらされることになります。
さらに一歩進んで、オトラント海峡の封鎖を突破できれば、イタリア艦隊は完全に苦しい戦いを強いられるでしょう。
この二つの作戦は、当時誰もが予測していたことでした。
そうしていつかは、アドリア海の奥深くで、砲声が響き渡る日が来るだろうと。
トリエステとヴェネツィアを結ぶ線上に砲火が飛び交い、そこが両軍の生死を分ける境界線となる――。
そうした、戦いの時が迫りくる異常な緊張感が、日を追うごとに刻々と高まっていったのです。しかし、オーストリア海軍は依然として、まるで戦う気力を失ったかのように港の奥深くに潜んでいました。三隻一組の編隊を捨てて五隻一組の編隊を組むという新しい方針を採用したはずのオーストリア海軍が、なぜ損害の少ないはずの潜航艇による戦いにさえ打って出なかったのでしょうか。
それには、陸上のトレンチノ戦線での大勝利が大きく関係していました。イタリア陸軍は参戦以来、主力軍をイゾンゾ川に投入し、大規模な攻撃を仕掛けていました。しかし、多くの兵士の命を捧げ、膨大な弾薬を使い果たしたにもかかわらず、イゾンゾ川の下流でわずかに国境を越えることしかできなかったのです。
その時、セルビアとの戦いが終わりを迎えました。オーストリア軍は、この機を逃さず反撃に転じました。まずイゾンゾ方面に兵力を集めているように見せかけて敵を油断させ、その隙にこっそりと攻勢の準備を整えたのです。ロシア戦線から三つの師団、イゾンゾ方面から四つの師団、バルカン方面から三つの師団、さらに国内で編成した三つの混成旅団を加え、それまでのケーブエス軍とダンクル軍に合流させました。そしてオイゲン大公の指揮のもと、イタリア軍の陣地を突破し、ヴェネツィア平原へとなだれ込もうと計画したのです。
四月二日の夜明け、ロヴェレットの南からスガナ渓谷にいたるトレンチノ全線で、約二千門とも言われる大砲が一斉に火を噴きました。これこそが、イタリア・オーストリア戦線における最大の殺戮の始まりでした。モリの南側の高地から始まり、ズグナ・トルタ山、マッギオ山、カムポ山、アルメンテラ山を経てコロー山にいたるイタリア軍の第一陣地は、その日の夕方までにはほとんどが破壊されてしまいました。その頃には、南チロール地区隊とギヴディカリー部隊を先頭に、歩兵たちが動き出していました。ケーブエス軍は一部をアディジェ河谷へ、主力をアスチコ河谷へ向けて、アルシェロの街を目標に進軍しました。また、ダンクル軍は一部をスガナ河谷へ、主力をチエッテ・コムニ高原に向けて、アジアゴの街を目標としました。そして、猛烈な砲撃に混乱して逃げ惑うイタリア軍を追いかけ、まもなく両方の街を占領することに成功したのです。
しかし、オーストリア海軍にとっては、この大勝利がむしろ災いとなりました。おそらく海軍上層部は、両国の勝敗は陸戦だけで決まると思い込んだのでしょう。いつのまにやら、あれほど燃えていた「戦うぞ」という意気込みが消え失せてしまったのです。その後、戦線に大きな動きはなく、イタリア軍は少しずつオーストリア軍を押し戻していきました。
その状況が、徹底抗戦を主張する男爵フォン・エッセンには我慢なりませんでした。彼は機会があるたびに声を荒らげ、軍の幹部たちに潜航艇で戦うよう強く迫りました。
「我が国は、かつての統一戦争でイタリア軍を打ち破ったではないか。その後の一八六六年のクリストッツァの戦いでも勝ったし、海軍だってリッサ島の海戦でイタリア艦隊を打ち負かしたのだ! しかも今度の世界大戦でも、どうだ。我々はイタリア軍に一度だって負けたことはない。歴史的な勝利を忘れ、決戦を恐れる軍のトップたちは、厳しく叱責されるべきだ!」
この、マリア・テレジア騎士団の集会での演説を最後に、フォン・エッセンは二度と怒鳴ることはありませんでした。そして、ひそかに潜航艇UR―4号の改造を始めたのです。
こうした経緯は、言葉にするまでもなく、七人の復辟派たちの胸に次々と浮かび上がっていました。まるでウルリーケの言葉が小石のように投げ込まれ、追憶という名の波紋が広がっていくかのようでした。
「そうしてUR―4号の改造が終わると、次に私を待っていたのは、悲しい船出でした。あの前夜、慌ただしく別れの挨拶を交わしたとき、私は別れの悲しみよりも、貴方の描いた美しい幻にすっかり魅了されてしまいました。あの青く広々とした自由な海、その上で武人が夢見るロマン……。まあ貴方は、潜航艇を三本のマストを持つ軽快な船に作り変えて……、しかもそれに『鷹の城』なんていう、古風で素敵な名前をつけたではありませんか。ああ、それは王立カリンティアン快走艇倶楽部の会員としての面目だったのでしょうか。いいえ、いいえ。私はけっしてそうとは思いません。きっと貴方は、最後の悲劇を詩のような輝きで飾りたかったに違いありませんわ。そして、しめやかな通夜の席で人々が『彼は自分の生活と夢を一致させるために死んだのだ』と語るのを望んでいたのでしょう。そして翌朝、一九一六年四月十一日、新しく生まれ変わった潜航艇『鷹の城』は、朝の闇にまぎれて、ついにトリエステを脱け出していったのです。あの時、ちょうど今のように朝焼けが始まっていたのを思い出しますわ」
その時、水平線がみるみる膨らみ、美しい夜明けの息吹が始まりました。波は金色のうねりを立てて、光を彼女の顔に反射させました。ウルリーケは爽やかな大気を大きく吸い込みましたが、おそらく彼女の目には、その輝く光さえも、錫色をした墓のように映っていたことでしょう。「ところが、そのとき積み込んだ四つの魚雷からは、どうしたことか、功績の証が消え去ってしまったのです。
その月の十九日にタラント軍港を襲撃しての、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』号の撃沈も、年を越えた五月二十六日にコマンドルスキイ沖で合衆国の巡洋艦『提督デイウェイ』と戦ったことも、このとおり艇内日誌にはちゃんと記されております。ですが、その公表においては、どうしたことか日付も違っており、まるで各自が勝手に自爆したかのように書き換えられていたのです。
それがドナウ聯邦派に利用され、ハプスブルグ家の栄光を、貴方一人の影で覆い隠す材料にされてしまいました。卑怯者、逃亡者、反逆者……ありとあらゆる汚名を着せられたうえ、今度は共和国を守るための、心にもない楯として利用されてしまったのです。
それにつれて、同じ運命が私にも巡ってまいりました。
わけても、貴方の生存説がどこからともなく伝わってきたときのこと、私たちの家には毎夜のように石が投げ込まれ、むろん貴方のお墓を作るなど、夢にもかなわなくなりました。
そんなところへ、貴方が拿捕した『室戸丸』の船長――それが現在私の夫ではございますが――が、貴方の遺品を贈るという申し出をしてきたのです。
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