初級翻訳・火星探険 第16話

海野 十三

「ああ、僕は今日ぐらいびっくりしたことはないよ。
だってコーヒーがね、本当にデニー博士を追駆けまわしたんだよ。
そして僕は、その湯気のたつ熱いコーヒーが博士を火傷させないようにと思って、一生けんめいコーヒーと角力をとったのさ。
そしてこれ、僕はこんなに両手を火傷しちゃった」
山木はそういって、火傷で赤くふくれあがった両手を、河合と張とネッドの前にだして見せた。
「やあ、ひどい火傷だ」
「でも、君のいうことがよくわからないね、コーヒーがデニー博士を追駆けたといって、それは何のことかね」
ネッドは、顔を前へつきだした。
「コーヒーが博士を追駆けたのさ。
それしかいいようがないよ」
山木はそういったものの、自分でもおかしくなったか、声をあげて笑った。
「僕にはわかるよ」と河合がいった。
「さっき僕はパイナップルの一片が空中をゆらゆら泳ぎだしたもんだから、フォークをもって追駆けまわしたのさ。
博士の場合は、あべこべにコーヒーが博士を追駆けたんだろう」
「そうなんだ。
博士の部屋で、電気コーヒー沸しを使ってコーヒーを沸していたのさ。
すると博士が“あっ、熱い”と叫んで椅子からとびあがんだ。
見るとね、博士の背中へ何だか棒のようなものが伸びているんだ。
それがね、よく見るとコーヒーなんだ。
コーヒー沸しの口から棒のようになって伸びているんだ。
茶っぽい棒なんだよ。
それで僕は、博士の背中にもうすこしでつきそうなその茶っぽい棒をつかんだのさ。
ところが“あちちち”さ。
両手を火傷しちゃった、そのコーヒーの棒で……。
だってコーヒーはうんと熱く沸いていたんだからねえ」
「ふうん、それは熱かったろう」
「ところがコーヒーの棒は、まるで生きもののように、博士の逃げる方へいくらでも追駆けていくのさ。
僕は、博士を火傷させては大変だと思ったから、またコーヒーをつかんだ。それから後、何べんも火傷した。
どういうわけだろうね、コーヒーは博士ばかりを追駆けまわしたんだ」
「それはそのはずだよ。
博士が逃げると、そのうしろに真空ができるんだ。
真空ができるということは、そこへコーヒーを吸いよせることになるんだ。
ちょうど低気圧の中心へ向って雨雲が寄ってくるようなものだよ」
河合は、そういって説明をした。
「そうかねえ。
しかし、張君はえらいね。
だって今にデニー博士がコーヒーに追駆けられるだろうということをちゃんと予言しているんだからね」
と山木は、傍でさっきから、にやりにやりと笑っている張少年の方へ振向いた。
「ふふふふ。
おそろしいよ、僕は……。
僕の予言があたるんなんて、全くおそろしいことだ」
張は、得意と恐怖とをつきまぜて、口をゆがめて笑うのだった。
「デニー博士の将来について張君は三つの予言をしたね。
その一つがあたったんだから、残りの二つもきっとあたるに違いない」
ネッドは、目をくるくるさせて、そういった。
占いの話になると、彼は誰よりも一番熱心になる。
「何だったけな、あとの二つの予言は……」
山木が首をかしげる。
「第二は世界のどこにも、一つの寝床一つの墓場ももたなくなるだろうというのさ。
第三は、博士は心臓を凍らせて、五千年立ちん坊をつづけるだろうというのさ」
ネッドは、よく覚えている。
「そういう予言だったかなあ」
張が、感心していう。
占った当人の張は、もうそんなことはきれいに忘れてしまったらしい。
「博士の寝床も墓場もないとは気の毒だ。
すると博士は一体どこに寝たらいいんだろう。
またどこにお墓をもったらいいんだろうか。
その予言のとおりなら、博士はどうすることもできないじゃないか」
と、山木はいう。
彼はこのところ張の予言に大変興味をわかせているのだ。
「さあ、どういうことになるか、僕にはわからないね」
ネッドも首を左右に振る。
「博士は心臓を凍らせて五千年も立ちん坊をしていなければならないのだって。
いよいよ気の毒な博士だ。
しかしなぜ、そんなに永い間立ちん坊をするんだろう。
ねえ、張君」
「僕がなにを知るものかね」と張は強くかぶりを振った。
「おやおや、御本尊がしらないんじゃ、誰にもわかるはずがない」
「その時がくれば何もかもわかるんだろう。
時はすべてを解決するというからね」
黙っていた河合二郎が、そういった。

探険決意
人工重力装置が働きだしたので、宇宙艇の中でのパイナップルの一片が空中を泳いだり、コーヒーが人を追駆けたりするさわぎはなくなった。
人工重力装置というのは、この宇宙艇の中に特別に重力の場を人間の力で作る器械であった。
この器械が働きだすと、すべてのものは地上におけると同じようにどっしり落着いた。
これから先、宇宙を進めばいよいよ地球に遠くなるから重力は更に減ってくるわけだ。
だからどうしても、この器械が入用である。
もしこの器械がなかったとしたら、艇内ではあらゆるものが机の上や床の上から放れ、空中で入り乱れて大変な混乱を起したことであろう。
人工重力装置が動きだしてから五日目になって、本艇においては非常によろこばしい事件が起った。
それは、地上を出発以来、さっぱりいうことを聞かなかったエンジンが、やっと乗組員のいうことを聞くようになったことである。
速度は、ほとんど危険速度まであがっていたが、この日デニー博士以下の技師たちが総がかりで速度を低下させることに成功した。
方向舵も、うまくきくようになった。
艇内は生きかえったように明るくなった。
誰の顔にも喜びと安心の色が見えた。
四人の少年たちも、これを聞いて、まあよかったと胸をなで下ろした。
故障のままで宇宙をとんでいるなんてことは決していい気持のものではなかった。
その日は、地上出発以来の乗組員たちの苦労をねぎらうためとあって、食堂はクリスマスのように飾りたてられ、たいへんな御馳走が出た。
そしてそのあとで、デニー博士をはじめ皆が、余興に隠し芸を出して、大笑いに笑った。
楽しい時間が過ぎていった。
会がいよいよ終りに近づいたとき、デニー老博士が立上った。
そして重大発言をしたのであった。
「さて諸君。
諸君の美しい協力と、不撓不屈の努力とによって、本艇の故障は遂に直ったのであるが、この先、本艇はどんな航路を選ぶべきか、それを只今から諸君に相談したい。
それには二つの途がある。
一つは地球へ引返すこと、もう一つはこの際火星まで行ってしまうことである。
どっちを諸君は望むであろうか」
そういって博士は、一同の顔をぐるっと見まわした。
しかし誰も何もいわなかった。
「現在の本艇の位置は、地球と火星とを結ぶ航路の約三分の二を既に突破している。つまりあと三分の一航行すれば火星につくのである。
なお、燃料はどっちにしても十分ある。
これは本館――いや本艇に予期以上の燃料が蓄えてあったことがわかったので、この点では心配ないと思う。
食糧は燃料ほど十分ではなく、いっぱいいっぱいの程度である。
だから火星へ直行する場合は、これから当分のうち少し減食しなければならないと思う」
「火星へ行きましょう」
「賛成、ここまで来たんだから火星へ行ってみたい」
「どうせわれわれは火星探険協会員だから、火星へ向って苦労するのは元より覚悟の上です。

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