初級翻訳・狼疾記 第9話

中島 敦

だから、そういった枠組みを超えたことについては、何も分からないようにできている。
神様だとか、目に見えない不思議な力だとか、そうしたものの存在(あるいは非存在)が、理屈で証明できないのはそのためなんだ。

お前の悩みだって、同じことさ。
お前の頭がそういう悩みを抱えるようにできているから、悩んでしまう。そして、その答えが見つからないように、お前の(つまり、人間の)頭ができているから、お前には答えが出せないんだ。ただそれだけの話だよ。

馬鹿馬鹿しい。「世界とは何か」とか「人生とは何か」なんて、そんな大雑把な言い方はやめたほうがいい。
第一、恥ずかしいとは思わないのか?
少しでもセンスがある人間なら、恥ずかしくてそんな大げさなことは言えないはずだ。
それに、世界っていうのはさ(こんな言葉を使うのは好きじゃないが、お前に分からせるためには仕方がない)、そんなふうに遠くから眺めるだけじゃ、決して大きくも深くも美しくもならないんだよ。
逆に、身の回りの小さなことまで深く観察して、一生懸命に関わっていくことで、世界はどこまでも広がっていくものなんだ。
この秘密も知らないくせに、生意気にも一人前の悲観主義者(ペシミスト)ぶるなんて、笑わせるんじゃないよ。

人間として立派になってくれば、誰だって世の中のルールや決まりごとを、いちいち馬鹿にしたりはしない。むしろ、その中にこそ、一番大切な知恵が隠されていると気づくものなんだ。
ただ眺めているだけの人生なんて、何のおもしろみもないけれど、そこに自分なりの工夫を加えたり、決まったやり方で取り組んだりすれば、とたんに意味のある、おもしろいものに変わることがある。
これこそが、人生のルールが必要な理由さ。
もちろん、ルールを守ることばかりに夢中になるのは愚かだけど、見ただけで「つまらない」と決めつけて軽蔑するのは、もっと馬鹿げている。

算数の「完全平方」って知ってるだろう?
あの公式を知らなければ解けそうもない複雑な計算も、公式を使えばすぐに答えが出る。
それと同じで、人生でぶつかる出来事に対しても、ちょっとした工夫や考え方で、分かりやすく意味のあるものにする技術を身につけるべきなんだ。悩むのは、それからでも十分だ。

とにかく、繰り返して言っておくけれど、その気取った、悟ったような、生意気な話し方だけはやめてくれ。
本当に、お前を見ているこっちが恥ずかしくて、どこか穴にでも入りたい気分だよ。

一昨日だってそうだ。仲間の独身者たちと結婚の話をしていた時のお前の言い草を覚えているか?
確かこう言ったな。「どんなに面白い本だって、教室で教科書として使った途端につまらなくなるのと同じで、どんなに素敵な女性だって、結婚して奥さんにした途端につまらない女になってしまうんだよ」――と。
それを得意げに語っていた時のお前の、薄っぺらで、ニヤニヤした顔を思い出すと、お前の年齢や経験を考えても、恥ずかしさを通り越してゾッとするよ。まったく。

まだあるぞ。言うべきことは、まだあるんだ。
鼻につく気取屋のくせに、その上、お前は汚らしい助平野郎でもあるじゃないか。
知っているぞ。いつだったか、海岸公園へ生徒を二人連れて遊びに行った時のことを。
あの時、お前たちが芝生で休んでいたら、近くで休んでいた労働者風の男たちが、わざと聞こえるような声で卑猥な話をしていたな。
その時のお前の態度や目つきはどうだった!
困り果てて、聞かないふりをしている――しかし、どうしても聞いてしまう少女たちのほうを、お前は、なんといういやらしい目つき(しかも横目で)でジロジロと見回したことか! いやはや。

いいか、別に俺は人間が生まれ持っている本能を否定するつもりはない。
助平なのは、大いに結構。
だけど、助平なら助平らしく、堂々としていればいいんだ。
気取ったポーズや、理屈っぽい言い訳の裏側に、その助平根性を隠そうとするのが、一番みっともないと言っているんだ。

このことだけじゃない。他の時だって、なぜもっと素直に振る舞えないんだ。
悲しい時には泣けばいいし、悔しい時には地団駄を踏めばいい。どんなに下品なことでも、面白いと思ったら大きな口を開けて笑えばいいんだ。
世間なんて気にしていないような顔をしておきながら、結局、自分がどう見られているか、自分の仕草がどう見えるかばかりを一番気にしているんじゃないか。もっとも、お前が自分で心配しているだけで、世の中の誰も、お前のことなんてこれっぽっちも気にしていないんだ。つまりお前は、自分自身に見せるために、自分でいろんな仕草を神経質に演じているだけってことさ。
まったく、どうしようもない大馬鹿野郎、救いようのない大根役者だよ。
お前という男は。
…………

気がつくと、三造はどこかの店のショーウインドーの前にある手すりにつかまり、ガラスに額を押し付けて、今にも倒れそうな体を支えながら、半分眠っていたようだ。
ショーウインドーの明るさに目をしばたたいてよく見ると、そこはネックレスやブレスレットなど、真珠の製品ばかりを売っている店だった。
おでん屋の前でM氏と別れたあと、いつの間にか、弁天通という、この港町特有の外国人向けの商店街までぶらぶらと歩いてきていたに違いない。
振り返って通りを見てみると、他の店はたいてい閉まっていて、人通りもなくひっそりとしているのに、なぜかこの店だけはまだ開いているようだ。
目の前のショーウインドーの中では、真珠たちが、黒いビロードの艶やかな敷物の上で、ふかふかと光を吸い込んで静まり返っている。
電灯の光の加減で、白い珠の一つ一つが、それぞれ乳白色に鈍く光を消したり、うす青くかすかな影を落としたりしながら並んでいた。
三造は、酔いがさめたばかりの目で、驚いた顔をしてそれをぼんやりと眺めた。
それから窓際を離れると、しばらくの間、M氏のことや、さっきまでの自分を責める気持ちも忘れて、人のいない街をうきうきと歩き回った。

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