気がつくと、三造の前の真っ白な瀬戸物の皿の上に、いつの間にか、それこそ目の覚めるような鮮やかな緑色のスイトッチョ(キリギリスの一種)が一匹、ちょこんと止まって静かに触角を動かしている。
真っ直ぐに伸びた羽の、なんと見事なことか。
白く明るい電灯の光の下で、皿までが染まってしまいそうなほどの緑色だ。
その白と緑を見つめながら、三造はなおしばらく、M氏の奥さんの話を聞いていた。
聞いているうちに、いつもこの男に対して抱いていた馬鹿馬鹿しさは消えてしまい、一種の薄気味悪い恐ろしさと、妙な腹立たしさ(直接M氏に対する怒りではない。また、今こんな場所にいる自分の滑稽さに腹が立つのとも少し違う。)が入り混じった、奇妙な感情に襲われてきた。
いつの間にか三造もかなり飲んでいたようで、しばらく相手の話が耳に入っていなかったが、ふと話し方が変わったことに気がついた。見ると、M氏は既に奥さんの話を止め、「ある他の事柄」について語っている。
「ある他の事柄」と言ったのは、それが今までの話題とはまるで異なり、(もちろん初めは何のことやらさっぱり意味が分からなかったが、聞いているうちに段々と分かってきたところによると、)全く驚いたことに、一種の抽象的な感想――いわば、彼の人生観の一片のようなものだったからである。
ただし、その表現はいつもの通り度を越して間が抜けており、声は曖昧でゆっくりで、かつ何度も同じことを繰り返すので、理解するのは非常に難しい。
しかし、辛抱強く耳を傾けてその意味を拾い、普通の言葉に直してみると、その時M氏がこぼした考えは、大体次のようなものだった。
――人生というものは、螺旋(らせん)階段を登っていくようなものだ。
一つの風景が見える展望があり、また一回り上っていけば、再び同じ風景の展望に出くわす。
最初の風景と二番目のそれはほとんど同じだが、しかしごくわずかに、二番目の方が遠くまで見渡せるのである。
第二の展望にまで達した人間にはそのわずかな違いが分かるのだが、まだ最初の場所にいる人間には、それが分からないのだ。二番目にいる人もまた、自分と同じ景色しか見えていないと思い込んでいるのです。
実際、口から出る言葉だけを聞いていれば、二人の間にほとんど違いなんてありませんからね。
――
螺旋階段という言葉の代わりに、「グルグル回りながら登っていくやつがありますね。ほら、あの高い塔に登る時の階段です。回りながら登っていくと、ずっと周りの景色が見えるような手すりがついた階段があるでしょう」という説明を何度も何度も繰り返して聞かせてくるので、この後も同じように、ものすごくまわりくどい言い方で、たったこれだけの意味を伝えるのに三十分もかかってしまうのです。でも、鉱石の中からわずかな金属を取り出すみたいに、じっくりと耳を澄ませて聞けば、確かに先ほどのような深い意味が隠されているのが分かります。
なんだか、フランスの哲学者モンテーニュが言いそうなことだなと思い、三造はさっきまでとは違う目でM氏の顔を見返しました。でも、M氏は読書家ではないので、決して本からこんな考えを仕入れたわけではありません。
五十年の人生という、のろまでどんくさい観察から生まれた、彼自身の本物の感想に違いありません。
そんな知恵の欠片もなさそうなM氏の顔を見ながら、三造はこう考え始めました。
誰もがこの男を馬鹿にしているけれど、もし僕たちが、この男ののろまな説明を理解するだけの我慢強さを持っているなら、今この男が口にしたような思想は、彼の言葉のあちこちに見つけられるんじゃないだろうか。
ただ僕たちの方に、それを見つけるだけの能力と根気が足りないだけじゃないのか。
さらに、その不器用で分かりにくい言葉をよくよく噛み砕いていけば、僕たちにも、なぜこの男がこんなにも他人から馬鹿に見えるような行動をとってしまうのかという、心理的な「理由」がはっきりと見えてくるのではないか。
そうなれば、M氏がM氏であることの必然と、僕たちが僕たちであることの必然――あるいは、ゲーテがゲーテであるしかなかった必然――との間に、価値の差をつけることなんて(少なくとも自分の中では)できないと感じるようになるはずだ。
実際、M氏はさっきの感想の中で、明らかに自分を一段高い階段にいるものとして、彼を笑う僕たちを「下の段にいながら上の段にいる者を笑おうとする身の程知らず」と見下しているに違いない。
僕たちの価値観が絶対だと信じ込んでいるのは、ただの自惚れに過ぎないんじゃないだろうか。
(このM氏の例を、同じように当てはめて考えてみれば)僕たちがもし、犬や猫といった動物の言葉や気持ちを理解する能力を持っていたとしたら、僕たちにも、彼らの生き方の必然性が身に沁みて分かるかもしれない。そして、彼らが僕たちよりもずっと優れた知恵や考えを持っていることに気づく可能性だってあるはずだ。
僕たちは、「人間だから」という簡単な理由だけで、人間の知恵が一番だと自惚れているだけではないのか。
……
酔いが回って、考えるのが面倒くさくなってくると、結局たどり着くのは、いつもの「結局、人間には何も分からない(イグノラムス・イグノラビムス)」という結論だ。
三造は、何かに追いかけられるように慌てて、お酒を三杯、四杯と立て続けに飲み干した。
スイトッチョは、いつの間にかどこかへいなくなっていた。
M氏もかなり酔っ払ったようで、目を閉じながらも口の中で何かブツブツとつぶやき、後ろの柱に寄りかかっていた。
五
ふん、まだ三十にもなっていないくせに、その澄ました顔で落ち着き払っている様子はどうだ。
今から何も、気取った哲学者を気取る必要なんてないだろう。
世の中を超越した、孤高の精神的な生活を楽しんでいるつもりなら、とんだお笑い草だ。
ただ、行動する力がないから世の中から取り残されているだけじゃないか。
世俗的な活動力がないからといって、世俗的な欲望までがないわけじゃないんだぞ。
卑しい欲望でいっぱいなくせに、それを手に入れる実行力がないからって、やたらと上品ぶるなんて悪い趣味だ。
追い詰められた孤独なんて、少しもかっこいいものじゃない。
それからもう一つ。
世俗的な才能がないということは、決して精神的な仕事に才能があるということにはならないんだからな。
決して。
だいたい、優雅な生活なんてものは、そもそも生活する能力がない人間の、最後の格好いい隠れ家なんだよ。
なんだって?「人生は、何もしないでいるには長すぎるが、何かをするには短すぎる」だと? なんて生意気なことを言っているんだ。
長かろうが短かろうが、とにかくそれは何か行動してから言うことだ。
何も分かりもしないくせに、何の努力もせず、やたらと悟ったようなことを言うのは本当によくない癖だ。
それこそが、本当の生意気というものだよ。お前が子供のころから抱えていたという「世界ってなんだろう?」「生きるってどういうことだろう?」という悩みも、随分とおかしなものだけど、よし、それについて答えてやろう。
いいか、よく聞け。
人間っていうのは、時間とか、空間とか、数といった限られた枠組みの中でしか、物事を考えられないように作られているんだ。
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