初級翻訳・狼疾記 第7話

中島 敦

なるほど、立ち居振る舞いもどこか鈍く、言葉も「そうした、もので、しょうなあ」という具合に、一語一語をゆっくり発音し、自分で自分の話し方を確認してから次の言葉をつなぐような話し方をする。

もう二十年もこの学校に勤めているらしいが、勤続年数よりも、その間に何人もの奥さんに先立たれたり、逃げられたりしたという話のほうが有名なくらいだ。
それからもう一つ、職員と生徒の区別なく、若い女と見れば誰でもすぐに手を握ってしまう癖があることも、みんなに知られている。
別に悪気があるわけではない(悪気を持つほどの頭の働きは、この人にはないと一般に信じられているからだ)。ただ、自分を抑えることが何もできずに、ひょいと手を握ってしまうらしい。
何度悲鳴を上げられたり、つねられたり、睨まれたりしても、本人は一向にこたえていない。感じたとしても、次の瞬間には忘れてしまうのかもしれない。
「よく、それでクビにならないものだが、あの顔だから許されているんだろう」と笑う職員もいる。

このM氏が、誰も相手にしてくれないせいか、週に二日しか出勤しない三造をつかまえては、しきりにあれこれ話したがるのだ。
「私はフランス語をやります」などと言うのだが、聞いてみると、ラジオの初等講座を一度か二度聞いた程度らしい。
しかし本人は、別にホラを吹いているつもりはなく、本気でそれでフランス語を「やった」と言えるつもりでいるのだ。
この調子で、M氏はドイツ語も漢詩も和歌も、みんなやると言い張る。
そんな話を聞きながら、三造は、M氏の鈍い目つきの中に、どこか凶暴なものが潜んでいることに気づくことがある。
追い詰められた弱い者が、突然攻勢に出る時のような、自棄(やけ)っぱちの感情が見えるような気がするのだ。

手紙を渡しても、案の定、M氏はなかなか帰ろうとせず、アリゲーターの剥製の下に腰を下ろして、いつものゆっくりした調子で話し始めた。
その中で、どういうきっかけか話が現在の(彼より二十歳も年下の)奥さんのことになり、彼は大真面目な顔で、自分と結婚する前の彼女の経歴などを語り出した。
「これは少し変だぞ」と思っていると、M氏は手に持っていた風呂敷包み(今まで気づかなかったが、それをわざわざ見せるために、彼は三造のところへ来たのだ)を開き、中から分厚い一冊の本を取り出して机の上に置いた。
表紙を見ると、薄紫色の絹地に白い紙が貼られ、そこに『日本名婦伝』と書かれている。

「家内のことが、これに載っています」
M氏はゆっくり、本当にゆっくりと言ってから、嬉しそうにニヤリと笑った。
「?」
三造は最初、何のことかさっぱり飲み込めなかったが、とにかくM氏が開いてくれたページ――白樺の、女の子が喜びそうな栞が挟んである――を見ると、なるほど、一ページが上下二段に分かれていて、その上段にゴシック体で彼の奥さんの名前が記されている。
それに続いて生年月日や出身地、卒業した学校などが書き連ねられ、さて、M氏と結婚してからは、貞淑にして内助の功少なからず云々……とある。それから今度は奇妙なことに、一転してご主人であるM氏自身の伝記に切り替わり、彼の経歴から、性格は温厚だとか、人は彼を聖人君子とみなすとか、まるで弔辞のような言葉が並んでいる。

ようやく三造には、すべての事情が飲み込めてきた。
一種の詐欺出版のようなものに、M氏は引っかかったのだ。
――つまり、「『日本名婦伝』という本に奥様の記事を載せたいから」などとおだて上げ、世間の無知な人々から相当な金額を巻き上げ、くだらない本を作っては、それをまた高値で売りつけるという、話にもならない仕掛けにまんまと乗せられたに違いない。
しかもM氏は、騙されたとは微塵も考えておらず、得意満面で人ごとにこれを見せ回っているらしい。
それに、この文章は明らかにM氏自身が書いたものだ。
ページをめくって前の方を見ると、なんと、紫式部や清少納言のたぐいがずらりと、やはりM夫人と同じ形式で、それぞれ一ページの半分ずつを占めて並んでいる。

三造は顔を上げてM氏を見た。
三造の呆れた顔を感嘆の表情だと受け取ったのか、M氏は隠しきれない喜びを浮かべて、鼻をヒクヒクと動かしている。(彼が笑うと、黄色い歯がむき出しになり、それと同時に、あのイチゴのような赤い鼻が――決して大げさな表現ではなく――文字通り、ヒクヒクと小刻みに動き出すのである。)

三造は、たまらず視線を下に落とした。
見ていられなかった。
喜劇だろうか? そうかもしれない。
しかし、これはなんとやりきれない、人間による喜劇なのだろうか。
まるで原始的な生き物のような、どこか奇妙な喜劇? 三造は棚の上に置かれた小さなカメレオンの模型に目をそらしながら、ぼんやりとそんな言葉を思い浮かべていた。

四

その夜、M氏に誘われて三造がおでん屋の暖簾(のれん)をくぐったのは、今考えてみると本当に不思議な出来事だった。
第一、M氏がお酒をたしなむなんて話は初耳だったし、ましてや外へ飲みに出るなんてことは想像もつかない。そのうえ、三造を誘うに至っては全くの予想外だったからだ。
M氏にしてみれば、自分の奥さんについて詳しく話せるほど親しくなった(と、彼は勝手に思い込んでいるに違いない)三造に、何かのかたちで親切にしなければ、と感じたのだろう。
誰にも相手にされない男が、たまに他人から真面目に向き合ってもらえたという喜びが、彼を突き動かし、おでん屋へ行くという、彼にしては破天荒な行動をとらせたのだ。

M氏の誘いに乗った三造自身の気持ちも、我ながらよく分からないものだった。
持病のぜんそくのせいで酒はほとんど飲まないし、M氏のような正体不明の人物とまともに話したこともなかった。だからその晩、彼に付き合ったのは、M氏ののろのろとした、薄気味悪くも執拗(しつよう)な誘いを断り切れなかったからというよりも、『名婦伝』という本で挑発されたことに対する、この男への意地悪な好奇心からだったのかもしれない。

あまり飲まない三造に無理強いするでもなく、一人で盃を重ねるうちに、M氏はその赤い鼻をますます赤くして脂ぎらせ、おまけに例の黄色い歯をむき出しにしてニヤニヤし続けている。
そして、いつものように歯切れの悪い言葉で、ゆっくり、本当にゆっくりと、まだ奥さんの話をしている。
かなり際どい内容を、実に素朴な言葉で、ダラダラと話し続けるのだ。
本人には、それが際どい話だという自覚はない。ただ、もう話さずにはいられないという様子で、自然と口から言葉が漏れているらしい。
夫婦の夜の営みについて、今の奥さんに不満があると言っては、締まりのない口元で長々と語り、「大変残念なことです」と、まるで他人のことでも話すような丁寧な口調で締めくくるのである。

一体どういうつもりでこんな話をするのかと、三造はしばらく、まともにこの男の顔を見返してみた。しかし結局、とりとめのない、ぬらぬらとした笑いに空しく突き放されるだけだった。
こんな話を聞かされている時、一体どんなポーズをとり、どんな顔をしていればいいのか。三造はすっかり困り果て、照れくささを隠すために、無理やり盃を口に運ぶしかなかった。

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