初級翻訳・かめれおん日記 第3話

かめれおん日記

本棚や本箱をひっくり返して、まだ残っているはずの昔の『詩と真実』を探しましたが、見つかりませんでした。
散らかった本の中で、しばらくの間、若さへの愛着と友情への飢えに、じっとしていられないような、切ないとも言いようのない気持ちでいっぱいでした。

二、三日前にも同じようなことがありました。
ある言葉を調べようとして英和辞典をパラパラとめくっている時、偶然開いたページの「Opera(オペラ)」という文字に目が止まりました。
その瞬間、ハッとするような明るくて華やかな、若々しい何かが目の前を通り過ぎた気がしたのです。
田舎の暗い田んぼ道から、土手を通る明るい夜汽車の窓を見送る時みたいに、すっかり忘れていた華やかな夢のかけらが、遠い世界からやってきてチラリと通り過ぎていったような感覚でした。

私がまだ学生だった頃、当時は映画館ではなかった帝国劇場に、毎年三月頃になるとロシアやイタリアから歌劇団がやってきました。
『カルメン』や『リゴレット』、『ラ・ボエーム』や『ボリス・ゴドノフ』など、私はお金の許す限り見に行きました。
明るい照明の中で、女優たちの豊かな肩や白い腕に産毛が光り、金髪が揺れ、頬が紅潮し、肉感的な若々しい声が心地よく震えて、私を酔わせました。
偶然目にした「Opera」というたった五文字が、失われた遠い華やかな世界のかぐわしい空気をほんのり漂わせ、しばらく私を混乱させました。
本来調べるはずだった言葉のことも忘れ、私は「Opera」という文字を見つめたまま、ぼんやりとしていました。

「回顧的になるのは体が衰弱しているからだ」と人は言います。
自分でもそう思います。
けれど、何と言っても、今現在、心から打ち込める仕事や生活がないことが、一番大きな原因に違いありません。
実際、最近の自分の生き方は、本当に情けなくて惨めなものです。気持ちがどんよりと沈み込み、自分の中でモヤモヤしたものがくすぶっている。自分自身を責めては殻に閉じこもり、それなのに、薄っぺらな皮肉屋の態度だけは捨てられずにいる。

こんなはずじゃなかったのにな。一体、どうして、またいつから、こんな風になってしまったんだろう? とにかく気づいた時には、すっかりこんな変な人間になっていたんだ。

良いとか悪いとか、そういう話じゃない。強いて言えば、「困った状態だ」ということだ。
ともかく、自分は周りの元気な人たちとは何かが違う。もちろん、威張って言っているわけじゃない。その逆だ。不安と焦りでいっぱいになりながら、そう感じているんだ。

物事の感じ方や、心の向かい方が、どうも人とはズレている。みんなは現実の中にしっかりと立って生きている。でも、俺は違う。まるでカエルの卵みたいに、プルプルした寒天の中にくるまっているような感じだ。現実と自分との間に、視界をゆがませる不思議な膜があって、外の世界を直接触ったり感じたりすることができないんだ。

最初は、これを「自分は頭がいいからだ」なんて思い込んで、悩んではいたけれど、どこか得意げでもあった。でも、どうやらそうじゃないみたいだ。もっと根本的で、生まれつきの、ある能力が欠けているせいらしい。それも一つじゃなくて、いくつかの能力がごっそりと足りないんだ。

例えば、人間として当たり前に持っているはずの「損得を考える力」が、僕には欠けているみたいだ。
それに、物事を一つの順番や流れとして理解することもできない。一つ一つをバラバラなものとして受け取ってしまうんだ。一日を「将来のために積み重ねる一日」として考えることができなくて、その一日そのものに価値がないと気が済まないようなところがある。

それから、自分を含めて、物事の内側にスッと入り込むことができない。いつも外側から「この位置はどうかな?」「全体から見てどんな価値があるかな?」と測ってばかりいて、結局その中身に触れられずにガッカリしてしまうんだ。
「永遠の視点から見る」なんて言うとかっこいいけれど、別に賢いわけじゃない。ただ、ものすごく平凡な「どうせ無常だよな」という考え方をしてしまうだけだ。何事も、生意気にも「永遠」と比べて考えてしまうから、すぐに「意味がない」と感じてしまう。実際にどう動くかを考える前に、「結局これには意味がないよね」と、心からつまらなさを感じて、すべてを投げ出してしまうんだ。

振り返ってみれば、これまでの生き方はなんて無意味だったんだろう。精神を一つに集中させることを邪魔するようなことばかりに、人生の半分を使ってしまったと言ってもいい。
とにかく、自分を眠らせ、自分が持っている才能を打ち消すことばかりに力を注いできたようなものだ。昔、まだ感性が鋭かった頃の僕は、その鋭さに振り回されるのが怖くて、欲しくもない無味乾燥な概念ばかりを考えて、感覚をわざと鈍くしようと必死だった。
そうして結局、すべての概念が灰色だと知った時、そして自分が苦労して捨ててしまったものが、どんなにキラキラした緑色をしていたか気づいた時には、もうそれを取り戻す術を失っていたんだ。

僕が昔、記憶力が良かった頃、その力を軽蔑していた。「記憶力しかない人間は、足し算しかできない人間と同じだ」なんて言って、自分のその力を消し去ろうとした。これはすごく無理のあることだった。せめて、その力を利用することだけは避けようとしたんだ。
でも、人間が生きていく上で大切なことの多くが、実はこの「記憶する力」に支えられていると身をもって知った今となっては、もう(薬を飲みすぎたりしたせいもあって)その力は失われてしまった。

今でもそうだけど、昔から僕は、夜ベッドに入ってもなかなか眠れない。主な原因は、この10年間、一晩たりとも欠かさず飲んでいる喘息の薬のせいなんだけど、おかげで睡眠時間は2、3時間。そのせいで、昼間はずっとぼーっとしている。
ベッドに入ると目が冴えてくるのに、「無理にでも寝なきゃいけない」と自分に言い聞かせて、一日の中で一番頭が冴えているはずの大事な数時間を、眠ろうとする無駄な努力のために捨ててしまっているんだ。
本当はそんな時こそ、いろんなアイデアの芽のようなものが、どんどん湧いてくる気がするのに。
でも、「そんなことに集中し始めたら、興奮して一晩中眠れないぞ。そうしたら明日は発作が起きるぞ」と焦って、せっかくの素敵な考えの種を、自分自身で揉み消してしまう。
まったく、僕はベッドの中の暗闇で、どれほど多くの素晴らしい思索の種を、無残にも踏みつぶしてしまったことか。
もちろん、僕は思想家でも科学者でもないから、僕の頭に浮かぶ断片的な考えが、すべて優れたものだったとは言わないけれど。たとえ最初はほんの小さな、つまらない思いつきだったとしても、その後に大きく育って、思いがけず面白いものに化けることがある。それは科学の世界でも、芸術や心の分野でもよくあることだ。

暗闇の中で、僕が自分自身の意志で踏みつぶしてしまった数えきれないほどの「思いつき」たち――それらはまるで、風に乗って高く空へ舞い上がるタンポポの種のように、闇の中に散らばって二度と戻ってこない――。

コメント

タイトルとURLをコピーしました