初級翻訳・かめれおん日記 第4話

かめれおん日記

その中にも、育てば面白いものになっていた種がいくつかは混じっていたんじゃないか? そう考えるのは、僕のうぬぼれに過ぎるだろうか。

さて、ここ数年のあいだ、僕はこんなふうに過ごしてきた。僕の精神が「よし、頑張ろう!」とキラキラ輝きそうになると、それを必死に押さえつけて眠らせようとした。逆に、精神がぼんやりとして眠そうな時だけ、無理やり働かせようとしたんだ。いや、本当は精神をまったく働かせないように、必死に抵抗していたのかもしれない。

(何のためにかって? もちろん身体のためさ。それで身体は良くなったかって? とんでもない。少しも良くなんてなりはしなかった。)

僕は、この馬鹿げた企てに見事に成功してしまった。本当の眠りも、本当の目覚めも、僕からは失われてしまったんだ。僕の精神はもう二度と働く力を失い、完全に眠り、淀(よど)み、腐ってしまった。
精神の缶詰、腐った缶詰。ミイラ、化石。これ以上ないほど、完璧で輝かしい成功だと思わないか。

三

昨夜、寝ようとした時から少し胸が苦しかったけれど、夜中になって案の定、いつもの発作に襲われて飛び起きた。アドレナリンを一本注射して、朝までベッドに座り込んでいた。呼吸は少し楽になったけれど、ひどい頭痛がする。朝になってもまだ不安だったので、エフェドリンを八錠飲んだ。朝ごはんは食べていない。息が苦しくて横になれないからだ。

一日中、椅子に座って机にもたれかかり、カメレオンの籠を目の前に置いて、頬杖をついて眺めている。カメレオンも元気がない。鳥の止まり木にとまって、小さな目玉をキョロリと動かして、じっとこちらを見ている。動かない。まるで瞑想でもしているみたいだ。尾の巻き方が面白い。木をつかんでいる足の指は、前が三本、後ろが二本。体の色はあまり変わらないようだ。全く違う場所に連れてこられたせいで、環境に合わせて色を変える準備ができていないんだろうか?

眺めているうちに、世の中のすべてが「カメレオンの目」を通して見えてくるような気がしてきた。人間として当たり前だと思っていることが、一つひとつ不思議で、疑わしいことに思えてくる。

頭痛は相変わらず治まらない。ほとんどは鈍い痛みだけれど、時々ズキズキと激しくなる。頭痛の合間に、頭の中にふっと浮かぶ考えがある。
「俺」という存在は、俺が考えているほど「俺」そのものじゃないんじゃないか? 俺の代わりに、日々の習慣や環境が勝手に動いてくれているだけなんじゃないか。それに、遺伝だとか、人類という生き物の一般的な性質だとかを考えると、「俺」という特別な個人の存在なんて、消えてなくなってしまいそうだ。

こんなことは言うまでもない当たり前のことかもしれないけれど、普通に生活しているとき、そんなことを意識している人はいない。ところが、僕のように何かに全力で打ち込む仕事がない人間には、このことがいつも意識されて仕方がないんだ。しまいには、何が何だか分からなくなってくる。

「俺」というものは、俺を組み立てている物質的なパーツと、それを操る何かでできている「からくり人形」のようなものだと考えずにはいられない。
この間、あくびをしかけたとき、ふと「このあくびの動作も、俺を操る誰かの操作なんじゃないか?」と感じて、ギョッとして伸ばしかけた手を下ろしたことがあった。

一ヶ月ほど前、自分の体の中にある臓器の一つひとつについて、(身体模型の図や、動物の解剖の時のことを思い浮かべながら)その場所のあたりを押してみては、その大きさ、形、色、湿り気、柔らかさなどを、目を閉じて想像してみた。
以前にもそういう経験はあったけれど、それはあくまで「内臓一般」「胃一般」「腸一般」を、自分の体のどこかにあるはずだと想像しただけで、とても抽象的なものだった。

しかし今回は、何と言うか、直接的に「僕」という個人を形作っている――僕の胃、僕の腸、僕の肺(いわば、個性を持った臓器たち)を、はっきりとその色や手触り、動いている姿そのままに想像してみたんだ。
(灰色の、ぶよぶよと弛んだ袋や、醜い管や、グロテスクなポンプのようなもの。)
それも今までになく、かなり長い時間――ほとんど半日――も続けてみた。

すると、僕という人間の肉体を組み立てている各パーツに注意が向くにつれて、次第に「僕という人間がどこにいるのか」が分からなくなってきた。
「俺は一体、どこにいるんだ?」
これは何も、僕が脳の仕組みに詳しくないからとか、自分の意識についての考えを知らないから、こんな幼稚な疑問を持ったわけじゃない。もっとずっと、肉体そのものから湧き上がってくるような、根源的な疑いなんだ。

その日以来、こんな想像にふけるのが癖になってしまって、何かに集中している時以外は、自分の体の中にある臓器たちの存在を生々しく意識するようになってしまった。
不健康な習慣だと思うけれど、どうにもならない。一体、医者たちはこんな経験をしたことがあるんだろうか? 彼らは自分たちの肉体についても、患者の体を見るのと同じように「ただの臓器」として考えているだけで、自分の個性を形作っているその胃や肺を、いつも自分の皮膚の下に感じながら生きているわけではないんじゃないか。身体を二つに切断されると、すぐにその切られた部分同士が戦い始めるという虫がいるそうだが、自分もそんな虫になったような気がする。
いや、それどころか、まだ切られてもいないうちから、身体じゅうがいくつにも分かれて争いを始めているんだ。
外に向かっていく対象がないときには、自分自身を噛んで、自分を苦しめるよりほかに仕方がないからね。

私が何かについて予想をするときには、いつも最悪のケースを考える。
それには、実際の結果が予想より良かったときにホッとして、小さな喜びを感じようという、極めて慎重な作戦もあるにはあるようだ。
私が誰かを訪ねようとするとき、まずは相手が留守である場合を考え、留守でもがっかりしないようにと言い聞かせる。
それから、家にいたとしても、何か取り込み中だったり、ほかに来客があったりする場合のこと。さらには、相手が何かの理由で(たとえ、どんなに考えられない理由だとしても)自分に対していい顔を見せないであろう場合。その他、いろいろな都合の悪い状況を想定して、そういう場合の方が好都合な場合よりも多くあり得ると思い込み、そうして、そんな状況でも決してがっかりしないよう自分を納得させてから、出かけるのだ。
何事についてもこれと同じで、ついには、失望しないために、最初から希望を持たないと決心するようになった。
がっかりしないために最初から欲を出さず、成功しないだろうという予想から、まったく努力をしようとせず、恥をかいたり気まずい思いをしたくないために人前に出まいとし、自分が頼まれたときの困惑を大げさに想像しては、自分から他人に何かを頼むことが全然できなくなってしまった。

外に向かって開かれていた器官をすべて閉じ、まるで掘り上げられた冬の球根のように、じっとしていようとした。
それに触れると、どんな外からの愛情も、途端に冷たい氷のしずくとなって凍りついてしまうような、そんな石になろうと私は思った。

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