「子供っぽい」と笑われることを気にしたり、自分自身に言い訳をしたりすることの方が、よほどおかしなことなのです。女の人や、お酒におぼれて身を崩してしまう人がいるように、形而上学的な(つまり、目に見えない世界の仕組みについての)探求に夢中になりすぎて、身を滅ぼす人間がいたっていいじゃないか。
女に迷って一生を棒に振る人と比べれば、数は少ないかもしれないけれど、この世界の根本的な仕組みを知ろうとして迷い込み、身動きが取れなくなってしまう男も、確かに存在しているんだ。
前者は喜んで文学の題材になるのに、どうして後者は文学に取り上げられないんだろう。
やっぱり異常だからだろうか。
でも、変わり者として有名なカサノヴァだって、あれほど多くの読者を楽しませているじゃないか。
しどろもどろの自分への言い訳の中で、ふと、彼はデューラーの『メランコリア』という版画を思い浮かべました。混乱の中にぼんやりと座り込んでいる、あの天使の絶望的な姿を。
もうあたりは暗くなり、山手の教会堂の影すら見分けがつかなくなっています。
彼の歩くすぐそばを、和船が一艘、音もなく追い抜いていきました。
船尾の灯りが水面に尾を引き、船は滑るように橋の下をくぐって左へ曲がっていきます。
その動きに引き寄せられるように、彼の思考の糸も、思わぬ脇道へと外れていきました。
「結局のところ、俺は自分の愚かさに突き進んでいくしかないんじゃないか。
すべてが語られ、考え尽くされたあとに残るのは、結局、人は自分の生まれ持った性質のままに従うしかないということだ。
その性質が、理屈や思考とは無関係であったとしてもね。
そして、その後の努力なんてものはすべて、自分の性質が選んだことに対する『もっともらしい理由付け』に過ぎないんだろう。
そう考えてみれば、昔から今に至るまでのあらゆる思想というのも、それぞれの思想家が自分の性質に対して行った『もっともらしい理由付け』に過ぎないんじゃないか……」
(註1)このひねくれていて、どこか哀れな少年は、その後二つの相反する願いに激しく悩まされるようになりました。
「あらゆる事柄や、この世界の第一の原理を知り尽くしたい」という欲望と、「できることなら、多くのことが自分の理解を超えた遠い場所にあってほしい」という、先ほどとは真逆の不思議な願いでした。
前者は誰にでもある、大人っぽく言えば「自分を神のように高めたい」という欲望でしたが、後者は「この世界が絶対に信じられる、確かなものであると信じたい」という、それとは逆の――つまり、この世界の不確かさや、哀れさに対する恐怖から生まれた強い願いだったのです。
「自分のようなちっぽけな存在にすべてが理解できてしまうような世界なんて、その中にいるのがどうしようもなく不安なんだ。
自分には足元にも及ばないような、大きくて確かな存在に身を任せていたい」という、小さな者の恐怖から生まれた、投げやりで切実な願いでした。
こうした願いにもかかわらず、彼は成長するにつれて、最初の望みはもちろんのこと、それ以上に強い二つ目の願いを叶えることも、どうやら無理らしいと、はっきりと――あまりにも恐ろしいほどはっきりと知らされることになりました。
世界も、人間の営みも、この少年が望むほど確かなものではありません。
それは小学校の先生に教わった「いつか世界は滅びる」という話を、「熱力学の第二法則」という言葉に置き換えて考えてみても同じことだし、そうした単純な科学を無視した、全く別の視点から世界を眺めてみても同じことだと、彼には思えたのです。
つまり、頭の中だけで作り上げた少年の虚無感に、今度は現実の生活を観察して感じた直接的な「無常観(すべては移り変わっていくという感覚)」が加わったのでした。
数万の軍勢を眺めながら、「百年後にはこの中の誰一人として生きていないだろう」と考えて涙を流したというペルシャの王様のように、この少年もまた、今や自分の周りのすべてに「いつかは消えてしまうという印」を見つけては、胸を締め付けられる思いがしていました。
物についてだけではありません。
とりわけ、どんなに誠実な愛情であっても、それが他のどうでもいいものと同じくらいあっけなく消えてしまうことに、彼は身を焼かれるような、激しい悲しみと寂しさを感じたのです。
――(さらに何年か経つと、今度は逆に、どんなに愚かで醜いことであっても、崇高なものと同じように存在していい権利があり、何の罰も受けずに、美しいものと少しも変わらずにその一生を終えていくことに、心が冷え切ってしまうような、残酷な感動を覚えたのですが。)――
(註2)不思議なことに、小学生の頃の彼は、人類全体が滅びるというような大きな話ばかりに気を取られていて、個人としての自分の死については、それほど直接的な恐怖を感じていませんでした。
それを感じるようになったのは、ずっと後のこと――中学生になってからのことです。
中学に入ってから体が弱くなった彼は、寝る前に目を閉じると、「死」について考えるようになりました。抽象的な概念ではなく、病気がちな自分に遠からず訪れるに違いない(本当にその頃の彼は、自分の寿命は短いと確信していました)直接的な死のことです。
自分の臨終の瞬間の気持ちを想像し、その瞬間から一生を振り返ったときに感じるであろう「人生の短さ」を考えてみるのです(それは二十年でも二百年でも、同じように短く感じられるはずです)。
ああ、本当に、なんて短いんだろうと、誰かに見せるためではなく、心の底からしみじみと、どうしようもない頼りなさとともに、そう考えずにはいられなかったのです。自分も世俗の人々と同じように、その最後の一瞬が来るまでは、何かに夢中になって、大きな宇宙の中での自分の立ち位置なんて全く気づかずに、日々あくせくと忙しく過ごして(いや、その途中で一度や二度くらいは、騒がしい街角でふと立ち止まって深く考える人のように、自分の本当の居場所にハッと気づくこともあるかもしれないけれど)、そうして迎える最後の瞬間に、初めて「ハッ」とするのだろう。
ハッとして、それから、一体どうなるっていうんだろう?……そんなことをあてもなく想像してみるだけで、真正面からじっくり考える気力はなくて、大掃除を一日また一日と先延ばしにするような怠け心で、死と向き合うことをずっと避けていたんだ。
(それでいて彼は、「生きることもまだ分かっていないのに、どうして死ぬことなんて分かるだろうか」なんて言った昔の哲人を憎んでいた。「死ぬことが何かも分からないのに、どうして生きる意味が分かるだろうか」と心から感じてしまうような素質を持って生まれた人間だって、確かにいるんだ、と考えたのである。)
いわば、物語を読むときに、途中のつらい出来事――主人公がいじめられたりするような場面――などは読むのがたまらなくて、どんどん飛ばして先を読み、結末だけを知ろうとする、せっかちな読者のように――そういう人たちにとっては、そこに至るまでの過程や道のりなんてどうでもいい。
ただ結末だけが必要なのだが――彼もまた、途中にあるはずのあらゆる思索や試練といったものをすっ飛ばして――そんなものにはとても耐えられない。
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