初級翻訳・かめれおん日記 第8話

かめれおん日記

キリスト教会の蔦(つた)は葉をほとんど落とし、蔓(つる)だけが静脈のように壁の面に浮き出て見えます。コスモスが二輪、柵に沿ってチリチリになりながら咲き残っています。海は霧でよく見えませんが、大きな汽船たちの影だけはすぐに分かります。時々ボーッ、ボーッと汽笛が響いてきます。

代官坂の下から、黒衣をまとったカトリックの尼さんがゆっくりと登ってきます。近づいた時に見ると、眼鏡をかけた、鼻がやけに大きな、醜い女性でした。

外国人墓地にかかります。白い十字架や墓碑が並ぶ傾斜の向こうに、増徳院の二本の銀杏(いちょう)が見えます。冬になると、裸の枝先が渋い紫褐色に逆立って、ユゴーか誰か古いフランス人の頬髭(ほおひげ)を逆さまにしたように見えるのですが、今はまだ葉もほんの少し残っているので、その趣は見られません。

入り口のインド人の門番に軽く会釈をして、墓地の中に入ります。勝手を知った小道をしばらくぶらつき、ジョージ・シドモア氏の碑の手前に腰を下ろしました。ポケットからルクレティウスを取り出します。別に読もうというわけでもなく、膝に置いたまま、下に広がる薄霧の中の街や港に目をやります。

去年のちょうど今頃、やはり霧のかかった朝、この同じ場所に座って街や港を見下ろしたことがありました。私は今、それを思い出しました。それがなんだか二、三日前のことのような気がしました。というより、今もその時から続いて同じ風景を眺めているような変な気がしたのです。

私の心に時々浮かんでくる想像――人生の終わりに直面して必ず感じるであろう「自分の一生の時の短さと果敢なさ」という感覚(本当に肉体的な、その感覚)を直接想像してみる癖が、私にはあるのですが――それがまたふっと心をかすめました。一年前が現在と全く区別できないように思われる今の感覚が、死ぬ時のそれに似たものではないかと思われたからです。

坂道を駆け下りる人のように、止まれば倒れてしまうので、やむを得ず走り続けていく。そういうものが人間の生涯だと言ったのは、誰の言葉だったでしょうか。

少し離れたところに、ごく小さい十字架が立っていて、前に鉢植えのゼラニウムが鉢ごと埋められています。十字架の下の、書物を開いた形の白い石には「安らかに眠れ(TAKE THY REST)」と刻まれ、生後五ヶ月という幼い子供の名前が記されています。南向きの斜面の暖かさで、ゼラニウムはまだ鮮やかな赤い花をつけています。

こういった綺麗な墓場に来ると、かえって死というものの暗さは考えにくいものです。墓碑、碑銘、花束、祈祷、哀歌など、死の形式的な半面だけが、美しく悲しい舞台の上のことのように浮かび上がってくるのです。

エウリピデスの作品の中の一節。ヒッポリュトスの継母パイドラが不倫の愛情に苦しんで寝込んでいる傍らで、彼女の乳母が、まだその理由を知らないながらに彼女を慰めています。

「人間の生活というものは、苦しみでいっぱいでございます。その不幸には休みというものがございません」「ですが、もしも人間の今の生活よりももっと素敵な場所がどこかにあるのだとしても、深い闇がそれをすっかり覆い隠してしまって、私たちの目には見えないようになっています。
それに、この地上の暮らしというものは、キラキラと輝いて見えるものですから、私たちはまるで狂ったかのように、この世にすがりついてしまうのです。
なぜなら、私たちはこの世以外の暮らしなんて知りませんし、死後の世界でどんなことが行われているのか、本当のところは何も分からないのですから」

私は、そんな言葉を思い出しながら、まわりにあるお墓を見回しました。すると、死んでしまった人たちの悲しい執着が――「何かを強く願ってはいるけれど、もう叶う希望なんてない」という彼らのため息が、何百あるとも知れないお墓の隅々から、白い霧となって立ち上がり、あたり一面を覆いつくしているような気がしてきたのです。

私は、結局ルクレティウスの本を開かないまま、腰を上げました。
海の上、もやのかかった灰色の中から、汽笛の音がしきりに聞こえてきます。
私は、傾斜のある小道をゆっくりと下り始めました。

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