初級翻訳・石ころ 第4話

山本 周五郎

……この急報を受けて、徳川氏もすぐに兵馬を発進させました。
けれども物見(ものみ)の報告によると、武田軍の陣形や配置は非常に堅固でした。
徳川家康は早くも勝頼の真意を察知して、むやみに前へ進まず、織田信長へ使者を送って援軍を求めました。
家康がこちらの軍略を読み取って慎重に織田・徳川の連合作戦を立てたことを知ると、勝頼は三河への侵入をきっぱりと諦め、高天神城の攻略へと全力を集中させ、六月十日に総攻撃の命令を発しました。
秋山万三郎は、高坂弾正虎綱(こうさかだんじょうとらつな)の部隊に属して、下平川口(しもひらかわぐち)の外塁(そとるい)の攻撃にあたりました。
戦いは夜明けとともに始まり、激しい矢や弾丸の応酬から、ついに一歩も引かない白兵戦へと移っていったのです。お昼少し前だったろうか、万三郎が敵のすさまじい集中砲火を浴びて、手勢の兵五十騎ほどといったん窪地へひそんだとき、すぐ隣の場所をまっしぐらに進んでいく一隊の兵士たちの姿が目に入った。
 歩兵が二十人ほどで横一列になり、先頭には抜いた刀を振りかざした若い武士が立って指揮をしていた。
 彼らは一言もしゃべらず、全員が槍を体にぴったりとつけて、足並みをそろえてギュッと引き締まった様子で進んでいった。
 雨のように降り注ぐ矢や弾丸の中を、まるでまるで軍隊の訓練(練兵)でもするかのように顔色一つ変えずに前進し、やがて指揮官が刀をひと振りしたかと思うと、野うさぎのように素早く敵のとりでの壁へと駆け上がっていった。

五

 万三郎は思わず「あっ!」と叫んだ。
 その一隊の先頭に立って指揮をしていたのは、ほかならぬ多田新蔵だった。
 かぶとですっかり顔は隠れていたが、よろいかぶとの様子で見覚えがあったし、背中に立てた旗しるしは紺色の布に白抜きで竜が描かれていて、まちがいなく彼だった。
――新蔵のやつが、先頭に立って突撃するぞ。
 それに気づいたときの驚きは、言葉では言い表せないほどだった。
 彼は我を忘れて窪地から飛び出し、「敵に斬り込め!」と大声で叫びながら敵のとりでへと迫っていった。
 とりでの一角が崩れ落ち、敵は弓や鉄砲を投げ捨てて、刀を抜き槍を振り回して押し返そうと戦った。
 万三郎は夢中で敵の中に斬り込んでいったが、ふと見ると多田新蔵が一人の立派なよろい武者と剣を交えていた。
「木暮弾正(こぐれだんじょう)」と相手が名乗るのが聞こえてきた。
 それはそのとりでの副将だった。多田のような者が相手では分が悪いと思った万三郎が助けに入ろうと駆けつけると、新蔵は石ころでも投げつけるかのような素早さで飛びかかり、相手の脇腹のよろいの隙間を突き刺した。
 万三郎の目には、新蔵の右手が大きく動き、きらりと刃物が光ったように見えただけだった。
木暮弾正は横向きにドサリと倒れこんだ。
――おお、新蔵がやりやった!
 彼は思わずうめき声をあげながら駆け寄ったが、新蔵はすでに別の場所へ走り出していた。
 いま討ち取ったはずの敵はその場に放置されたままである。戦の功績の証拠である首や持ち物を取ろうともせず、「敵を討ったぞ!」と大声で名乗りもしない。
 倒れた敵を踏み越えて、そのまま前へと斬り込んでいったのだ。
「おい多田! 武功のしるしを回収していかないのか!」
 万三郎は懸命に大声を張り上げた。
 新蔵は振り返りもしなかったが、倒れていた木暮弾正がむくっと上半身を起こした。
 それを見た万三郎は、駆け寄るなり相手を押し伏せ、その手柄のしるしをしっかりと切り取った。
「さすがは秋山どの、お見事なお手柄だ!」
 そう声をかけながら、山県善右衛門(やまがたぜんえもん)が走っていくのが見えた。
「いや違う、これは多田が……」と言いかけようとしたが、善右衛門はすでに遠くへ走り去ってしまっていた。
 万三郎はくやしそうに激しく舌打ちをし、弾正のしるしを部下に持たせて、再び敵の真っ只中へと斬り込んでいった。

 その日の戦いの中で、万三郎はこれとまったく同じ場面を三度も目撃した。
 二度目は中村の柵(さく)のなか、三度目は寺部(てらべ)の出丸(でまる)でのことであり、しかも三度とも、あの木暮弾正を討ったときと同じやり方だった。
 多田新蔵はまっしぐらに手ごわい敵へと襲いかかり、喉のあたりか脇腹か、あるいはよろいの裾の隙間を突き刺して相手を倒すと、後ろを振り返ることもせず、次の強敵に向かって再び斬り込んでいく。いま自分が倒した相手がどれほど名の知れた偉い武将であっても、決して首や手柄の証拠を持ち帰ろうとはしないし、「俺が討ち取った」と名乗りもしない。目の前の相手を倒すと、それですぐにまた強敵を探して前へ前へと突き進むだけだった。
――いったいどういうつもりなのだろうか。大乱戦の中で頭がおかしくなってしまったのか、それとも……それとも何か深い考えでもあるのだろうか。
 万三郎はいろいろと考えてみたが全く見当がつかず、ただ「なんと不思議な戦い方をする男だ」という疑問だけが頭の中に残ったのだった。

……こうしてその日の夕暮れが近づくころには、外側の防壁のとりでがすべて陥落し、丸裸になった城となった高天神城を取り囲むように、武田軍は包囲の陣を敷いた。
 はげしい攻防が繰り広げられた一日が終わり、夜がやってきた。
万三郎は、武田勝頼の本陣(旗本)にいる多田新蔵を訪ねていった。
新蔵はかがり火のそばに戦闘用の盾を敷き、その上に座って、何やら小さな物を熱心に磨いていた。
万三郎は声をかけてその前にどっかりと座り込み、じっと相手の目を凝視した。
「今日は見事なお手柄だったな。下平川口の砦で、木暮弾正を討ち取るところをしっかり見せてもらったぞ」
「木暮弾正だって?」新蔵は目をパチパチさせた。「おれはそんな名前の人間は知らないがね」
「なぜしらを切るんだ! おれはこの目でしっかり見たぞ。貴公がこうやって太刀を振り上げて、弾正の脇腹をみごとに突き刺したところを……。手柄のしるしはおれが回収したが、敵を討ち取ったのはまぎれもなく貴公だ!」
「おれは知らないね」新蔵は全く身に覚えがないといった様子で首を横に振った。「大乱戦の中だったから、人違いをしたのだろうよ。まったく身に覚えのない話だな」
「いや、知らないはずがない! 寺部でも中村の柵でも、貴公がよろい武者を討ち取るのを見たぞ。おれのこの目で、たしかに見たんだ。どうして貴公はそれを隠そうとするんだ? おれには理由がさっぱりわからない。どうしてだ!」
「どうしてと言われても、知らないものは知らないと答えるほかないじゃないか」新蔵は布切れで何かを磨きながらそう言った。「ここでこんな口論をしていても仕方がないだろう。誰が誰を討ち取ったかなんてことは、軍の『功名帳(こうみょうちょう)』にちゃんと記録されているはずだ。それを見れば一目瞭然でわかることさ」
 そう言いながら彼は、ピカピカに磨き上げた小さな物を手のひらの上にのせ、かがり火の光にかざしながら、うっとりとした表情で見つめているのだった。手のひらの上にのせられていたのは、小さな石ころだった。かれは、万三郎の目がその石にじっと向けられているのに気づくと、ふり返って、にっと笑いながら言った。

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