今までの恩返しとして、これ以上多くのことはしなくていいから、それなりの手切れ金をもらって、そのお金を持って出ていけと言うんです。
誰かの二号にしていただかないと、もう我慢ができません」
女は思いつめているせいか、いっそう表情をなくし、おいおいと泣き伏してしまった。
安福軒とはそんなひどい奴だったのかと気づくと、せっかくの温泉気分が台無しになってしまったことこの上ない。
女のことも気の毒ではあるが、そんな厄介なことに構っているヒマはない。
大急ぎで帰りのしたくをととのえる。
こうなることを最初から予想していたのか、安福軒側も抜かりはない。
「もうお帰りですか」
と老婆が出てきて、請求書を差し出す。
細かく書かれた勘定書で、昨夜のうちに安福軒が作っておいたものだった。
安福軒の飲食代もしっかりとその中に書きこまれている。
花代としては、普通の芸者の三倍もの値段がついている。
チップの計算も抜かりない。
「ここに朝食代とあるが、朝食は食べずに帰るんだぞ」
「朝食は宿泊の決まりとなっておりますので、召し上がらないと、お客様の損になりますよ」
「二人前とあるが、安福軒の朝食まで私が払う必要があるのかい」
「それはあなた、芸者衆の朝食代ですよ。
これも遊びの決まりですから。
いかがです? 朝から一本おつけいたしましょうか」
「バカにするな!」
「これに懲りず、またどうぞお越しください」
こうして大巻先生は、ほうほうの体(てい)でその静かな隠れ家から飛び出したのである。
左巻き教祖
それから一年が過ぎた。
ある日、東京・芝にある大巻先生の病院へ、安福軒が例の女性を連れてやってきた。
「いやぁ、先生のところに泊まらせていただいてから間もなく、どうも精神がおかしくなったようでしてね。
どこか精神病院へお世話していただけませんか」
と言うのである。
仕方がないので、ひとまず女を診察室へ呼び入れて様子を見てみると、たしかに普通の状態ではない。
まわりの人間たちが、みんなバカに見えているらしいのだ。
「何なのよ。
お前は偉そうな顔をして。
私がジッと睨んでやると、お前なんか、ほら、たちまち手のひらの上の小人のように小さくなっちゃうんだから」
女は、大巻先生を変に色っぽく睨みつけながら、からからと高い声で笑った。
「ここ、病院でしょう?」
「そうだが」
「フン。
私がお前を見てあげるから、ピンセルチンを出しなさい」
「ピンセルチンだって?」
「お前の病院にはないわけ?
じゃあ、聴診器や体温計はいらないから、メスを出しなさい。
お前の汚い血をとってあげるから」
なんだか危険な思想を抱いている様子なので、大巻博士もさすがに面食らい、ちょうど診察を受けに来ていた呉服屋の番頭である日野くんという機転の利く人物に見張りを頼んで、女をレントゲン室へと遠ざけた。
さて、それから安福軒を呼びつけて、こう言った。
「君もひどい男だな。
私に以前あんな嫌な思いをさせといて、よくもまあ平然とした顔でその女を連れてこられたものだ」
「いやあ、それがですね。
あの人が先生の噂をするんですよ。
また先生にお会いしたいなんてね」
「嘘をつけ。
私の顔なんか覚えていない様子じゃないか」
「今はそうですけど、そこは病気のことですからね。
まあ何と言いますか、ときどき、先生のことをとても深く思い出すらしい様子なんですよ」
どうせ適当な出まかせを言っているのだろうとは思いつつも、安福軒の口からそんなふうに言われると、なぜか少し嬉しいような気がしてしまうのがシャクである。
しかし、いつまでも舐められたままではいられないので、ただ追い返すだけでは面白くない。
今回は思い切り仕返しをしてやろうと、大巻先生はひらめいた。
「しかし、君の彼女は病気になってから、いっそう気品が高まったじゃないか。
私を見下してカラカラと笑った様子なんて、ただの病気というよりも、まるで神様のような人間――神人(しんじん)的だね。
私はゾッとしたよ。
まるで圧倒的な威厳に打たれたような気持ちだったね」
「そう言われてみれば、気品と色気がますますあふれ出ているようですがね」
「そんな彼女を精神病院へ入れるなんて、もったいない話じゃないか」
「どうしてですか?」
「君も、目利きの商売人にしては頭が固いね。
彼女の中に、神人のような性格を見いだせないのかね」
「とりますると、まるで宗教の教祖さまでもあると?」
「その通り、その通り。
医者の使う道具や薬の中に『ピンセルチン』なんてものは存在しないが、あれはおそらく作語症というやつだろう。
自分だけの独特な言葉を持っているのだよ。
これも神人ならではの性格じゃないか。
人間どもがみんなバカに見えて、睨みつけると手のひらに乗っかるくらい小さくなっちゃうなんていうのも、これまた雄大な神人のような性格だと思わないかね」だいたい温泉町という場所は、新しく教祖が生まれたり、教団の本拠地を作ったりするにはぴったりのところなのに、あんなに立派な教祖さまをわざわざ東京へ連れてきて精神病院にブチ込むなんて、とんでもない大間違いだよ。
彼女をもったいぶった態度で連れ戻して、ちゃんとした自分たちの宗派でも開きなさいよ」
「なるほど、面白い考えですねえ。
先生が協力して下さるなら、やってみてもいいですがね」
「私が協力することなんてないだろう。
君の商売の才能を使って、手落ちのないようにやりたまえよ」
「商売の才能と言いましてもね、宗教ビジネスなんて畑違いのことは手も足も出ませんよ。
先生の肩書と立派な評判を使って、彼女を神サマに祭り上げて下さるなら、私も彼女をあなたにお貸ししてもいいですがね」
「私が君の彼女を借りて、女性の教祖なんか作る必要がどこにある。
君が困っているようだから知恵を貸してあげただけだが、それが不満なら、さっさと彼女を連れて帰ってくれたまえ」
「そんな冷たいことを言わずに、彼女をどこかへ入院させてくださいよ。
それが面倒くさいからって、そんな適当なことばかり言わないでくださいよ」
「君たちの面倒を見てあげる義務なんて私にはないんだからね。
とっとと帰ってくれたまえ」
となりのレントゲン室に彼女を閉じ込めて見張りをしながら、この会話を聞いていた日野くんが、そのとき割って入った。
「ちょっと。
安福軒さん」
「おやまあ。
やけになれなれしい人ですねえ、この男は」
「彼女をボクに貸して下さるなら、ボクが入院手続きの手間や費用を全部浮び上がらせてあげますけどね」
「おや、面白いことを言いますねえ。
あとの後始末を私に押しつけないという誓約書さえ書いてくれるなら、話を聞かないこともありませんよ。
失礼ですがあなた、貯金はどれくらいお持ちなんですかな?」
「これはお恥ずかしい。
税務署の手前もありますし、ちょっと具体的な金額を申し上げるわけにはまいりませんがね、ボクも呉服屋の手代という堅い商売をやっている人間ですから、間違ってもあなたに損をさせるようなことはしませんよ。
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