初級翻訳・神州天馬侠 第177話

吉川 英治

 一方、急いで駆け抜けていった小文治は、やがて道が狭まるにつれて、樹木や蔓草(つるくさ)に馬の足が邪魔をされ、次第に立場が悪くなってきました。
 この早駆け勝負の前に、奉行の方から「騎乗は自由」と言われていたので、当然、馬で通れる道だと考えていましたが、この様子では、この先は馬で押し通すことはできないかもしれません。
「はかられたな」
 と小文治は早くも心の中で悟りましたが、要するに地理に不案内だった自分の落ち度であり、いまさら引き返すわけにはいかないことも分かっているので、「ままよ」と強情に、木々に狭められた細い道へと無理やり馬を進めていきました。
 が、そこを我武者羅に駆け抜けても、すぐにまた一つの難関がありました。
 どこの沢か知りませんが、恐ろしく急な傾斜で、その下には幅の広い渓流が真っ白な泡を立てて流れています。
 迷いました。
 小文治は迷わざるを得ませんでした。
 手綱を扱うのに相当な用意と覚悟を持てば、自分だってこんなところを乗り降りできないことはありませんが、帰る時はどうするのでしょう?
 ほかに登る道があればいいのですが、ないとすれば、この傾斜では馬を登らせるのが難しい。それに、下に見える渓流も果たして騎馬で越せるかどうか?
「うーむ、さては大久保をはじめ徳川家の連中め、あらかじめ土地の様子を調べておいて、うまうまと最後の勝負でこちらに一杯食わせたのだな。……なんとも残念なことだ、どうしてやろうか」
 と、名馬・草薙の足もそこからは進めず、手綱をむなしくして馬上でぼうぜんと考え込んでいると、そこへ飛んできた早足の燕作が、
「ああ、やっと追いついた」と振り返り、「おい大将、失礼だけれど、お先へごめんこうむりますぜ」
 と、尻を叩くような仕草を見せて、ひょいと傾斜の崖っぷちへ飛びかかりました。
「あッ」
 と、我に返って歯ぎしりをする小文治を「まあ、ごゆっくり」と見返して、そう言うが早いか、燕作の体は岩に布を巻きつけて転がしたように、そこから沢の下の水辺まで一息にザザザザザと駆け下りてしまいました。

二

 もう迷っている場合ではありません。
 小文治は馬を捨てました。
 あたりの大木へ手綱をくくりつけておいて、燕作のあとを追って、これも飛ぶ鳥のように沢へ降りました。
 降りてみると燕作はもう渓流の岩を跳び越え、ひらりと対岸へ上がっています。
 小文治が川の向こうへ渡りついた時には、やはり同じ距離だけ先へ進んで、今度はスタスタと登りにかかっていました。
「おっ、白鳥の山へかかってきたのだな」
 彼は気が気ではありませんでした。
 まだ一里も二里も先がある勝負なら、なんとかそれだけの距離を取り返すこともできましょうが、確かここから十二、三町登った中腹が、例の大鳥居です。
「おのれ、燕作ごとき素町人におくれをとって、一党の人々に顔向けができようか」
 早駆けとはいっても、ここまでくれば武芸以上の必死の戦いです。
 いや、そんな意地や名誉心よりも、万が一自分が敗れでもすれば、いやでも応でも咲耶子の身を徳川家の手に渡さなければなりません。
 いわば一党の人々の約束と咲耶子の運命とは、二つながら自分の双肩にかかっているのです。
 負けてなるものか、遅れてなるものか。
 彼はやや焦りました。
 汗が全身を濡らしてきます。
 呼吸が詰まります。一方、燕作のほうを見ると、さすがは足が慣れているだけあって、少しも焦る様子は見せません。まるで平坦な道を歩くように、スラスラと十二、三町(約1.3〜1.4キロ)の登り坂を軽々と踏み進んでいきました。
すると間もなく、彼の前には七、八段の幅の広い石垣が現れ、巨人が踏ん張った足のような大鳥居の根元が見えてきました。
「おっ、やっと着いたぞ」
さすがの燕作も、そこではホッとしたように一息つき、山の下を見下ろして手をかざしてみましたが、まだ小文治の姿は見えません。
安心したのか、
「へん、どんなもんだい」
と胸を張り、また手ぬぐいを風車のように回しました。
「おっと、そうはいっても勝負はまだ半分だ。あの額の縁に刺さっている矢を抜き取って、もとの試合場まで帰り着かないうちは、本当に勝ったとはいえないからな」
そうつぶやきながら、大鳥居の上を見上げました。
そこへよじ登ろうとしたのか、燕作は蝉のように丸木の鳥居へペタリと取りつきましたが、待てよ、と少し考え直しました。
「こいつは損だ。割に合わねえ」
と、急に別の矢を探し始めたのです。
上の額縁に刺さっているのは、先ほど徳川家の射手・加賀爪伝内が放った遠矢です。燕作も徳川方の一人である以上、当然その矢を抜いて持ち帰るのが筋ですが、この登りにくい鳥居にしがみついて滑ったり落ちたりするよりは、どこかに落ちているはずの山県蔦之助の矢を探すほうが、時間的にずっと得策だと、相変わらずのずる賢い考えを起こしたのです。
そこで、鳥居をくぐって当たりを見回し、しきりに探し始めましたが、この矢探しにも難問がありました。
伝内の矢は的の中心には当たらなかったものの、額の縁に的中したため、あのように見事に鳥居の上にとまっています。しかし、的を外した蔦之助の矢は、どこまで飛んでいってしまったのか、その距離や方角など、燕作には想像もつきません。
「おやおや、そうは問屋が卸さねえってわけか。じゃあ、やっぱり素直に、あの上のやつを抜いて帰るしかないな」
と、急に考えを改めた燕作。
なんの気なしに、先ほどの大鳥居の根元へふたたび戻ろうとすると、足のつま先が何やら妙なものに当たりました。ヒョイと見ると、そこには嵯峨天皇風の字体で「白鳥霊社」と彫られた、四角い古い欅の板が落ちていたのです。
「あれっ?」
燕作はそう言って、その板と鳥居の上を見比べ、あんぐりと口を開けました。
なぜかといえば――その板は、本来なら大鳥居の上にかかっているはずの額そのものだったからです。
それなのに……と思って、空中の鳥居と地面の板を交互に見比べると、鳥居の上には額の縁だけが残っており、中の板だけがここに落ちていることが分かりました。
では、なぜ落ちたのか――その理由は、もう燕作には疑う余地もありませんでした。
証拠は歴然としています。そこに落ちている神額の中板の「白鳥霊社」という文字の「霊」という字を、見事に突き刺している一本の矢! 見るまでもないことですが、手に取ってみると、それは確かに先ほどの試合で、山県蔦之助が日輪巻の弓から放った白鷹の塗矢に違いありませんでした。
「ああ、こりゃ大変なことになったぞ」
燕作は、今までの苦労が水の泡になったようにガッカリしてつぶやきました。
先ほどの遠矢試合では、河内流の加賀爪伝内が勝ったことになっていましたが、いま、その的場である大鳥居の根元に立ってみると、これは明らかに伝内の負けで、蔦之助の勝ちです。
伝内の矢は額の中心を外し、わずかに縁にとまっているに過ぎませんが、蔦之助の矢は神額の真ん中を射抜き、その板ごと下へ落としてしまったのです。
そのために、御岳の試合場から見ると誰の目にも外れたように思われましたが、こうして実態が分かってしまえば、とんでもない番狂わせです。

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