「俺が早駆けに勝ったところで、今日の勝負は五分五分だ」と、燕作はすっかりやる気を失ってしまいました。
と――下の方から、巽小文治が息を切らしながら登ってくる姿が見え始めました。
「ええい、来やがった」
燕作は先に着いていながら、まごまごしてしまいましたが、急に何かを思いつきました。
「そうだ、何も心配することはない。俺がここでこの額板を見つけたから蔦之助の当たりが分かったものの、なあに、このままどこかへ隠してしまえば、相手の連中だって気づくはずはねえ」
矢は抜いて自分の腰に差し、神額の板は、誰にも気づかれないような雑木林の崖へ向かって、力任せに放り投げました。
「うむ、これでよし」
そうして立ち去ろうとしたその時、何者かの声が響きました。
「待て! 燕作」
「あっ……」
彼は何者かを見たのでしょう。
振り返った瞬間、天地がぐるりと回るような衝撃に襲われました。そして襟首を放された瞬間、燕作は脇腹を強く打たれ、鳥居の下で意識を失って倒れ伏してしまいました。
三
それからわずかな時間が過ぎた頃、燕作に追い越されたはずの小文治が、息を切らしながらそこへ登ってきました。
しかし不思議なことに、たった今何者かに投げ飛ばされ、大鳥居の下で気絶していたはずの燕作の姿は、どこへ片付けられたのか、そこには影も形もありませんでした。
そんな変事があったとは知る由もない小文治ですが、ふと不審に思いました。
後から登ってくる道すがら、下りてくる燕作とすれ違うだろうと思っていたのに、ここへ着いてもその姿が見当たらないからです。
「卑怯なやつめ。さては、この上でも自分を出し抜くために、どこか近い抜け道を通っていったな」
いわゆる、負けた者の強がりではありませんが、小文治もこうなっては、この遠駆けの勝敗を天の意思に任せるほかないと覚悟を決めました。
全能の力を出し尽くして、それでも敗れるのであれば、もうどうしようもありません。
男らしく一党の人々の前へ出て、罪を謝るよりほかに道はない。そう決心したおかげか、不思議と小文治は落ち着いた気持ちでいられました。
そこで静かに、持ち帰るべき矢を探し始めましたが、蔦之助の矢は見当たりません。代わりに、大鳥居の額縁に刺さったままの加賀爪伝内の矢が目に入りました。
彼は「どうやってあれを取ろうか」と腕を組んで考え込みました。
ふと見ると、すぐそばに立派な椋(むく)の大木があります。その高い梢の先がちょうど鳥居の横木にかかっていたので、「そうだ」と思い、駆け寄ってそこへよじ登ろうとしたその時です。
「小文治、小文治」
不意に、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえました。
――しかし、どこを見回しても、人らしい影など周囲の鬱蒼とした木々の間には見当たりません。
「耳のせいか?」
彼はそう思いました。ふたたび椋の幹に抱きつき、大鳥居の横木へ渡ろうと試みます。
「――今わしが降りてゆくから、来るには及ばんよ。そこで待っているがいい」
「や? ……」
耳のせいではありません。
誰だろう、何者だろう、この白鳥の峰でなれなれしく話しかけてくる人間は。
小文治の目はしきりに動き、背後の木立を透かしたり、暗い緑に包まれた境内を見回したりしましたが、ついに何者も見つけ出すことはできませんでした。
――ただ、さっきから明らかにそこに存在していて、特に気にも留めていなかったものがありました。鳥居の横木にうずくまっている、一羽の灰色の鳥です。
ところが、彼の鼻先へ上から額縁の矢が抜けてポーンと落ちてきたので、目を凝らして見直すと、その灰色の影が鳥ではないことが初めて分かりました。
衣のようなものをまとった人間だったのです。
鳥居の横木に腰を下ろし、杖のようなものを持っている様子。矢を落としてから、スルスルと横木の端へと這い出してきました。
銀色のような髭が顎から垂れ下がり、風に揺れているのが、その時には下からもありありと見上げられました。
老人はやがて椋の梢にすがり、蜘蛛が降りるようにスルスルと降りてきました。
「あっ、あなたは果心居士(かしんこじ)先生!」
「小文治、久しく会わなかったな」
「どうして、あんなところに……」
「まあよい、そこへ座れ」
座って話をしている場合ではありませんでしたが、ここしばらく一党の誰の目にも姿を見せなかった果心居士が、突然そこに現れたのですから、小文治も茫然として、思わずその場に腰を下ろしてしまいました。
「今日はえらい騒ぎだったな」
居士はいつもと変わらない童顔に、明るい微笑を波のようにたたえて言いました。
「わしも少し案じられたので、今日は早くからあれに腰を据えて見物していたのじゃ」
と、鳥居の上を指さしました。
「えっ、では、先生はあの鳥居の上から御岳の試合を眺めておいでだったのですか」
「よく見える。あたかも鞍馬(くらま)の上から加茂の競馬(くらべうま)を見るようにな」
「して、いつこの武州へ?」
「昨夜、何気なく例の亀卜(きぼく)の易を試みたところが、どうも甚だ面白くない卦(け)の知らせじゃ。そこで急に思い立って、今日ぶらりとやってきたが、果たしてこの騒ぎ……」
小文治は居士の話にいろいろな疑問を抱きました。亀卜の易とは何なのか。また、京の鞍馬山から武州まで今日ぶらりとやってきたというのも、自分の聞き間違いのような気がしたのです。
けれど、彼がそんなことに頭を巡らせているうちに、居士はどんどん先の話を続けました。
「で、何より案じられたのは、万が一にも咲耶子(さやこ)の身を徳川方の手に渡してしまえば、おそらく再び助け出すことはできまいということだ。なぜといえば、家康の心のうちには、いよいよ邪計の萌しが見える。――武田の残党を憎むことが、以前よりも甚だ激しいのじゃ」そして秀吉と天下の覇権を争ううえでも、常に背後の気がかりとなっている伊那丸君やその一党を、どんな犠牲を払ってでも根絶やしにしなければならないと、ひそかに準備を進めているのだから」
老骨とは思えない若々しい居士の言葉には、仙人のような趣か、あるいは子供のような響きか、不思議な気品が備わっていました。小文治はつつしんで聞いていましたが、話が途切れると、遠駆け試合の決勝が気にかかって、じっとしていられない気持ちになりました。
「もし、果心居士先生」
たまらなくなって、小文治は腰を浮かしかけました。
「なんじゃ」
「せっかくお話中ではございますが、ご承知のとおり、わたしはいま遠駆けの途中でして。この矢を持って、一刻も早く試合場へ戻らねばなりませぬと……」
「うむ、存じておる」
「ですが、ただいまも仰せられたとおり、万が一にも不覚をとれば、咲耶子の身が……」
「それは分かっておる。まあよい」
分かっていると言いながら、小文治のワクワクと急く胸の内も察することなく、居士は悠然と椋(むく)の木の根元に腰を据え、目を半眼に閉じて、顎の銀色の髭を柔らかく撫でています。
四
気が気ではない小文治をよそに、居士はまだ言葉を続けます。
「わしが見るに、世の中はいよいよ乱れるだろう。戦は諸国で起こって絶えることがない。人間はますます殺伐として、人情や美しい風習はすたれていく。
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