初級翻訳・良寛物語 手毬と鉢の子 第9話

新美 南吉

ちょうど、家で叱られるたびに頭を叩かれる子供が、学校で先生から軽く注意される時でも、つい手を上げて頭をかばおうとしてしまうのと同じことです。
栄蔵は自分で、こんな癖はよくないことだと分かってはいるのですが、しょっちゅう友達からからかわれたり、笑われたりするものだから、なかなかその癖は直りませんでした。
ある日お父さんが、何でもないようなことで栄蔵をたしなめた時にも、この悪い癖が出てしまいました。
栄蔵は黙って突っ立って、上目遣いにお父さんの顔を見ていたのです。
お父さんは普段はいい人なのですが、何か悩み事があって浮かぬ顔をしている時は、ひどく怒りっぽくなるので、その日も気短にこう言って怒鳴りました。
「なんだ。
親に向かってそんな目をする奴があるか。
そんな目で親を睨む奴は、今に鰈(かれい)になってしまうから見ていろ」
栄蔵は目を伏せました。
何か考え事をしている時のお父さんから、冷たい口調で叱られると、いつも栄蔵は情けない気持ちになるのでした。
そして、お父さんが恨めしくさえなるのでした。
今日もお父さんは、そう言ったまま、もうお前なんかに口をきくのも嫌だというように、奥へ入っていきました。
栄蔵はしばらく、お父さんが閉めた襖を見つめていましたが、急に踵(きびす)を返すと、ぷいと家を出て行きました。
家を出てきたものの、どこへ行く当てもありませんでした。
ただ胸の中が不愉快でした。
しばらくの間、鍛冶屋の前に立っていました。
いつもなら鍛冶屋の仕事は、いつまで見ていても面白いものなのです。
しかし今日は、それもつまらなく見えました。
ふと、さっきお父さんが「親を睨むと鰈になる」と言った言葉を思い出しました。
もちろん、最初はそんなことは信じていませんでした。
大人は時々ああいうことを言って脅すのだと思いました。
例えば、嘘をつくと死んでから閻魔(えんま)様に舌を抜かれると言ったり、辻で銭を拾うと厄病が家へやって来ると言ったりするのと同じです。
しかし、だんだんあれは本当のことかもしれないと思えてきました。
というのも、栄蔵のお父さんは、今まで一度も嘘を栄蔵についたことがなかったからです。
――きっと本当なのだ。
そう考えると、これは大変なことです。
今にも栄蔵の体が、魚屋や行商人がよく売りに来る、あの平たい鰈になってしまうかもしれません。
いや、もうすでになっているのではないだろうか。
栄蔵は慌てて自分の足を見ました。
幸いなことに、まだ人間の足をしていました。
しかし、もうのんびり遊んでいることはできません。
こんな道の真ん中などで鰈になってしまったら、ちょうど行商人の魚籠(びく)から跳ね出した鰈のように、砂の上でぺんぺん跳ねていなければならないでしょう。
そうなれば、その辺の野良猫が見つけて食べてしまうはずです。
たとえ猫の歯を逃れたとしても、道を通る馬の足か、車の輪でぺしゃんこに轢かれてしまうでしょう。
これは、早く海の方へ行かなければなりません。
栄蔵は、海岸の方へ足を向けました。
海は凪(な)いでいて、静かな海面にタコを捕る舟が三、四艘浮かんでいました。
栄蔵は岩のある所を選びました。
岩が寄り集まって、澄んだ美しい水がその裾を浸していました。
ここまで来れば、もう鰈になっても安心だと栄蔵は思いました。
鰈になったら、すぐこの明るく美しい水に飛び込めばよいのです。
誰か来たら、すっと岩陰に隠れてしまえば、捕まる心配もありません。
ところで、自分が鰈になったら、それからどういうことになるだろうと、栄蔵は考えてみました。
鰈といっても、きっと小さな鰈でしょう。
ちょうど栄蔵の掌(てのひら)くらいの大きさだろうな、と思いました。何しろ栄蔵はまだ子供なのですから。
そんな小さな鰈は、今日のように穏やかに凪いだ日なら、ここの岩場で遊んでいてもいいでしょうが、風が強くて波が激しい日には、一体どこへ行けばいいのでしょう。
どどォ、どどォと牡牛のような波が、この岩にぶつかって、真っ白になって飛び散るとき、もしその辺りをうろついていたら、岩の面に叩きつけられて、すぐに死んでしまうに違いありません。
それが嫌なら、あの暗い緑色をした深いところへ入っていかなければならないでしょう。
あそこには気味の悪いクラゲやタコ、恐ろしいアンコウや、ワニザメなんかが潜んでいるはずです。
栄蔵の鰈なんか、パクりと一口で食べられてしまうでしょう。
そうなると、栄蔵のお父さんや、お母さんは、いつまで栄蔵を待っていても、栄蔵は帰ってきません。
二人はどんなにか心配することでしょう。
松さんや他の下男に命じて、栄蔵を探させるはずです。
それでもなお、栄蔵は見つかりません。
何しろ栄蔵は鰈になって、その上ワニザメに食べられてしまったのですから。
お父さん、お母さんは、嘆き悲しむに違いありません。
お父さんは特に、栄蔵をあんなに厳しく叱りつけたことを、後悔されるに違いありません。
栄蔵はお父さんが後悔することを思うと、いっそ鰈になって、ワニザメに食べられてみたいような気さえしました。
栄蔵の胸の中には、奇妙な気持ちがいっぱい詰まっていました。
そして、今に鰈になるかなるかと待っていました。
しかし、人間の子が鰈の子になるのは、なかなか簡単なことではありません。
やがて日が暮れて、夕方がやってきました。
空が夕映えで茜色になり、空の茜が海に映って、海も赤くなりました。
もうきっとお母さんが、「おや、栄坊が見えませんが、どうしたのでしょう」と言っている時間だと栄蔵は思いました。
そうするとお父さんがびっくりして言います。
「なんだって。栄坊がいない? それは変だ。さっき私が叱りつけたから、悲しくなってどこかへ行ってしまったのだろうか」
「あなたがあんまり強くお叱りになるから、こんなことになるんです。あの子は気が小さいから、優しく言い聞かせなければ駄目なんですよ」とお母さんが言います。
「松、ちょっと栄坊を探してきてくれ」とお父さんが松さんに頼みます。
割木を割っていた松さんは、「へえい」と言って栄蔵を探しに出ます。
初め金ちゃんの家へ探しに行きますが、金ちゃんは「今日は一度も栄坊ちゃんと遊んでないもん」と言います。
それから松さんは、カッちゃんの家へ行きます。カッちゃんも知らないと言います。
あっちこっちの家を探しますが、栄蔵は見つかりません。
そこで松さんは、とうとう探しあぐねて海岸へやって来る……と、栄蔵は、岩陰にしゃがんでいて想像しました。
ところが栄蔵の家で起こったことは、大体栄蔵のその想像の通りでした。
そして、松さんは海岸へやって来ました。
空と海の茜色が消えて、岩の陰はもう暗くなっていました。
松さんはそこに、誰かが小さくなって震えているのを見つけました。
「やあ、栄坊さん」
と言って、松さんは、しばらく後の言葉が出てきませんでした。
やがていつものようにひょうきんに、
「いやですよ、こんなところにひとりで隠れん坊なんかしていちゃ」
と言いました。
栄蔵は松さんを見ると嬉しくなりました。
しかし、まだ鰈のことを思っていたので、こう聞きました。
「俺、まだ鰈にならんかね」
松さんはぷっと吹き出しました。

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