初級翻訳・論語物語 第48話

下村 湖人

そうした素晴らしい心を生かすことの前では、お役人になるかならないかなんて小さな問題にすぎん。
そもそも、いまの世の中の人は、早く役人になりたがりすぎる。
早く役人になったからといって、それが偉いわけではないのだ。
3年間ずっと学問に真面目につとめ、それでもお給料の出る仕事をもとめない人がいたら、その人こそ本当にめったにいない素晴らしい人間じゃ。」
漆雕開はよほど心に響いたのか、目をきらきらと輝かせて孔子を見つめました。
しかし、孔子のまっすぐな視線とぶつかると、彼はすぐにまた自分のひざへと目を落としてしまいました。
「ところで――」
孔子は今度は閔子騫(びんしけん)の方に目を向けながら言いました。
「閔子騫のところにも、このあいだ大夫の季氏(きし)のほうから何か連絡があったのではないかね?」
「はい、このあいだ突然お使いの方がみえまして、費邑(ひゆう)という町の代官をやらないかというお話でございました。」
「ふむ、それで?」
「きっぱりとお断りいたしました。
なんといっても、最近の季氏はやりたい放題で、国を自分のもののようにわがもの顔でふるまっておられますし、そのうえ費邑は季氏の私的な領地でございますので……」
「いや、近ごろの季氏のわがままぶりは、全くもって言語道断じゃ。
国の家来でありながら、自分の家の大きなお墓のところで、天子だけが舞うことを許された最高峰の舞を踊らせるなんて、思い上がったマネをしていると聞く。もしこれさえも黙ってがまんするとしたら、この世の中にがまんできないものなんて何もないということになる。
お前が断ったのも無理はない。
いや、断るのが当然じゃ。
しかし、そんな大物を相手に断るのはいろいろ骨が折れたろう。
一体どんなふうに言って断ったのかね?」
「特にくわしい理由は申し上げませんでした。
ですが、お使いの方がしつこく勧めてこられましたので、『もし二度とこのようなお誘いを受けるようなことがあれば、私は故郷の蔡(さい)の国へ去って、川のほとりで静かに隠れて暮らすつもりだ』と、少し厳しめに申し伝えておきました。」
ふだんは口数が少なく、誰からも穏やかで誠実だと言われていた閔子騫の言葉としては、それはとても思い切った力強い言葉でした。
孔子さえもちょっと驚いたほどです。
しかし、一番喜んだのは子路でした。
「痛快だなあ!
――いや、閔子騫くんがそんなかっこいいセリフを言える人だとは知らなかったよ。」
すると孔子は、それを聞きとがめるように、キリッとした表情で言いました。
「それは閔子騫だからこそ初めて言える言葉なのじゃ。」
子路はきょとんとした顔をしました。
孔子は話を続けました。
「本当の君子の強さは、腕の力や巧みな話術にあるのではない。
いざという時に、何の迷いも不安もなく正義を守り抜く力、そこにこそ君子の本当の強さがあるのじゃ。
閔子騫にはその強さがある。
前にも言った通り、君子は物事を判断したり、自分が進むか退くかを決めたりするときに、いつも『正義』を基準にするが、心が狭い小人はそれとは反対に『自分にとっての得か損か(利害)』を基準にするものだ。
損得ばかりを基準にしていたのでは、本当の強さは絶対に生まれてこない。
だからこそ、閔子騫のような思い切った態度は、誰にでも簡単にできるものではないのじゃ。」
しばらくの間、しーんと静かな時間が流れました。
子路と閔子騫は、それぞれ違う意味で、少し恥ずかしそうに首をうなだれていました。
そのとき、子貢が不意に尋ねました。
「なるほど、漆雕開くんや閔子騫くんの場合は、それでよく分かりました。
ところで、ここに世の中に一つしかないというほど美しい玉があるとします。「先生は、その玉を、永久に匣の中に蔵って置かれるおつもりですか、それとも、善い買手を求めてお売りになるおつもりですか。」

孔子は、彼自身に仕官の意志があるかどうかを、子貢が例の巧妙な譬喩を使って探っているということを、すぐ悟った。
で、彼は笑いながら答えた。
「売りたいとも、売りたいとも。
しかし、めったな人には売りたくないものじゃ。
まあ目利きの買手がつくまで、当分待つとするかな。
ははは。」

みんなも声を立てて笑った。
孔子は、しかし、すぐ真面目な顔になって、これまで一言も発しないで坐っている顔淵の方を見ながらいった。
「君子の理想は、用いられればその位置において堂々と道を行い、用いられなければ、退いて静かに独り道を楽む、というところになくてはならない。
ところで、そのどちらにも自信があるのは、先ず今のところわしと顔淵だけかな。」

顔淵は、一寸意外な顔をして何かいおうとした。
しかし、もうその時には、子路がいかにもせき込んだ調子で、口を出していた。
「先生、しかし万一、一国の軍隊を率いて敵国を攻めるというような場合がありましたら、先生は一体誰と一緒に仕事をなさるおつもりですか。」

子路は、心の中では、かなり憤慨していた。
が、同時に彼は、自分の望みどおりの答が、孔子の口から聞けるものだと確信して、強いて自分を落ち着かせていた。
孔子は、しかし、子路の気持など、まるで気にもとめていないかのような風であった。
彼は、少し笑いを含みながら、誰にいうともなく云った。
「世の中には、素手のままで虎と取っ組んだり、筏なしで大河を渡ったりして、死ぬことを何とも思わない、勇ましい人間もいるが、わしは元来、そんな人間とは道連れにするのも恐ろしい方じゃ。
で、万一戦争でもやるとしたら、わしの参謀には、用心深くて、知恵があって、周到な計画のもとに、確信を以て仕事をやり遂げて行く人が欲しい、と思っている。」

子路は、虎を搏ちそこねて、崖から真逆さまに落ちて行くような気がした。
顔淵と閔子騫とは少し伏目になって、自分たちの前の床を見つめた。
子貢の才気走った眼は、孔子と子路との間を何度も往復した。
漆雕開はただもじもじと両手を膝の上でもんでいた。
するとまた孔子が云った。
「まあ、しかし、わしが三軍を指揮するようなことは恐らくあるまい。
それよりか、わしは、いっそ筏にでも乗って海に浮かびたいと思っているのじゃ。
どうせ道を行う望みのない世の中に、ぐずぐずしているのもつまらないのでな。」

みんなはおどろいて孔子の顔を見た。
孔子はにこにこしながら、
「さて、いよいよ海に浮かぶとして、わしについて来る者は、先ず子路だろうかな。」

子路は目を輝かして次の言葉を待った。
「子路、どうじゃ。
漂々として二人で海に浮かぶのも面白いではないか。
わしもお前ほどの勇者についていてもらえば、安心というものじゃ。」

孔子はそういって子路をまともに見た。
子路は感激で全身が蒸発しそうになるのを、やっと引きしめていた。
孔子はつづけていった。
「しかし、子路、筏に乗るにも、先ず安心の出来る筏の用意が大切じゃ。
筏がなくて海に浮かぶことばかり考えても始まらんのでな。
ところで、お前は、勇気を愛する点では、たしかにわし以上だが、どうじゃ、いい筏の準備がうまく出来そうかの。」

子路は再びがくりと首を垂れた。
「いや、しかし、こんな話は止しにしよう。
ほんとうに海に浮かぼうというのではないからな。

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