これをやり遂げたのは、そのあたりに住んでいた大橋門蔵(おおはしかもんぞう)という人でした。
そのあと、父・椿岳は観音さまの本堂の脇にある淡島堂(あわしまどう)へと移り住み、「浅草画(あさくさが)」と呼ばれる絵を十二枚一組にして描き、それを十銭で売ったりしていました。
近ごろでは、葛飾北斎(かつしかほくさい)以後の日本の画家として、フランスなど海外でも名前が知られるようになっているそうです。かわった人たちがたくさん集まっていたものだから、そのころはそりゃあもう、すごくおもしろい遊びをたくさんやったものですよ。お寺の山門のところで本格的に茶の湯をやってみたり、昔の有名な人である浅山志道軒(あさやましどうけん)が持っていた木で作られた男根のオモチャがなぜか伝わっていたので、志道軒の真似をして街頭でおもしろおかしく辻講釈(つじこうしゃく)をやろうなんていう計画もあったんですが、結局それはやらじじまいでした。
それに、ぼくの父親である椿岳(ちゅうがく)は油絵なんかも描く人で、明治のはじめごろの超ハイカラな人でした。
それからおもしろいエピソードといえば、父がゴム製の枕を持っていたのですが、それを作家の仮名垣魯文(かながきろぶん)さんがものすごく欲しがったんです。ちょうど例の「万国一覧」の覗き眼鏡の軍艦の模型の下に貼りつけるための、いらなくなった紙(反古(ほご))が足りなくて困っていたところ、魯文さんが自分の書いた小説の原稿の束をゴミ箱ごと丸ごと持ってきて、「これあげるから、その代わりあのゴムの枕をちょうだい!」と言って交換したのを覚えていますよ。
要するに当時の風変わりな人たちというのは、山東京伝(さんとうきょうでん)や曲亭馬琴(きょくていばきん)の持っていたような世界観を受け継ぎ、さらに時代を下って笠亭種彦(かさていたねひこ)のような人たちの、めずらしくておもしろいものを愛する「耽奇(たんき)の趣味」をしっかりと自分のものにしていた人たちでしたから、観音堂のすぐそばで「耳の垢(あか)取り」のお店でもやろうじゃないかなんて言って、わざわざそのための道具まで手作りしたなんていう笑い話もあるくらいです。
本郷の玉川という水茶屋(みずちゃや)を営んでいた鵜飼三二(うかいさんじ)さんなども、この仲間の一人でした。この玉川の三二さんは「生きている辞書」なんて言われるほど物知り人で、のちには得能(とくのう)さんの相談役のようになって、毎日友人たちの家を次々と訪ね歩いては楽しく遊んで暮らしていました。
父の椿岳が油絵の描き方を教わったのは、横浜にいたワグマンという外国人でした。この人の描いた油絵は、山城の宇治(うじ)にある「万碧楼菊屋(ばんぺきろうきくや)」というお茶屋さんの中に今でも残っていますよ。
このワグマンという人もまたかなりの変わり者で、手をそっと差し出すとスズメがやってきて、すっかり懐(なつ)いて手にピョンと止まるような、そんなステキな人柄でした。
風刺画(ポンチ絵)なんかもたくさん描いていて、今でもぼくが思い出して「おもしろかったなぁ」と思うのは、郵便ポストの口のところにクモの巣がグニャリと張っている様子を描いた絵なんかがありましたね。
(明治四十二年六月『趣味』第四巻第六号)
初級翻訳・諸国の玩具 第2話
淡島 寒月
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