初級翻訳・透明怪人 第1話

江戸川 乱歩

ろう人形

 そのふたりの少年は、あんなに恐ろしい目にあったのは、生まれてはじめてのことでした。
 春の初めのある日曜日、小学校六年生の島田君と木下君は、学校の先生のおうちへ遊びに行っていろいろ面白いお話を聞き、夕方になってやっと先生のおうちを出ました。
 それは、その帰り道での出来事です。
「おや、変だな。こんな町、ぼく一度も通ったことがないよ」
 島田君が不思議そうにあたりを見まわして言いました。
「本当だ。ぼくも通ったことがないよ。なんだか、さびしい町だなあ」
 木下君も変な顔をして、人っこひとりいない広い大通りを見まわしました。
 夕方のうすぼんやりした光の中に、一度も見たことのない町が、ふたりの前に広がっていたのです。
 果物屋だとか、お菓子屋だとか、肉屋などがずっと並んでいるのですが、どの店にも人の姿がなく、まるで人間という人間がこの世からすっかりいなくなって、お店だけが残っているのではないかと疑われるほどでした。
「変だなあ」と思いながら歩いていますと、一軒もりっぱな骨董屋(こっとうや)が目につきました。
 大きなショーウィンドーの中に、古い仏像だとか、美しい模様の陶器などがたくさん並べられています。
 ふたりの少年は、思わずその前に立ちどまりました。
「ぼくのお父さんは、こういう仏像が好きなんだよ。いっしょに歩いていて骨董屋があると、きっと立ちどまるんだ。そしていつまでも眺めている。でも、ぼくは古い仏像なんて嫌いだな。なんだか気味が悪いんだもの」
 島田君が言うと、木下君も、
「うん、気味が悪いね。博物館の仏像の部屋って、あれみんな生きているみたいだろ。ぼく、いつか博物館へ行ったとき、怖くなっちゃった。でも、あの仏像はたいてい国宝なんだよね」
「ねえ、きみ、あの真ん中にある黒いかねの仏像ね、インド人みたいな顔をしているね」
「仏像って、たいていインド人の顔だよ。仏教はインドからはじまったんだもの」
 ふたりはそんなことを言いながら、だんだんショーウィンドーの横手のほうへまわっていきました。
 横からでないとよく見えない仏像があったからです。
 ふと気がつくと、ふたりがはじめに立ちどまったショーウィンドーの正面に、ひとりの洋服の紳士が立っていました。
 ソフト帽をまぶかにかぶり、オーバーのえりを立てて、それにあごをかくすようにして、じっとひとつの仏像を見つめています。
 それは黒っぽい金属でできた、高さ十五センチほどの小さい仏像ですが、ショーウィンドーの真ん中にりっぱな台にのせて、さも大事そうにかざってあるのです。
 木下少年は、その紳士の顔をしばらく見ていたかと思うと、なぜかびっくりしたように、いきなりひじで島田少年のわき腹をつきました。
 島田君がおどろいて目をあげますと、木下君の二つの目がまんまるに見ひらかれ、いまにもまぶたから飛びだしそうになっていました。
 そして、そのまんまるな目はガラスのむこうの紳士の顔を、穴のあくほど見つめているのです。
 島田君も紳士の顔を見ました。
すると、島田君の目も木下君とおなじようにまんまるになって、まぶたから飛びだしそうになりました。
 なにがそんなに、ふたりの少年をおどろかせたのでしょう。
 それは、その紳士の顔は、人間の顔ではなかったからです。
 ふたりの少年ははじめ、その紳士がお面をかぶっているのではないかと思いました。
 しかし、お面ならばひもで両方の耳にかけてあるはずですが、よく見るとそんなひもはどこにもないのです。
 お面とほんとうの顔とのさかいめがないのです。
 もしお面だとしたら、頭からすっぽりかぶるような、特別なお面なのでしょう。
 紳士の顔は、洋服屋のショーウィンドーにある西洋人の人形とそっくりでした。
 あの人形はろうでできたのではありませんが、この紳士の顔はろうのようにスベスベして、すきとおるように白いのです。
 ろう人形です。
 ろう人形が町をのこのこ歩いてきて、ショーウィンドーの前に立っているのです。
 ほんのりと赤みのさしたまっ白な顔、高い鼻、かっこうのいい口ひげ、美しい西洋人の男の顔です。
 しかし、生きた顔ではありません。
 まゆも、目も、口も、いくら見ていてもすこしも動かないのです。
 ろう人形のように動かないのです。
 そのうえ、この紳士には目の玉というものがありません。
 二つの目は空洞のようにまっ黒に見えているだけです。
 紳士は小さな仏像をくいいるように見つめていて、ショーウィンドーの横手のほうにふたりの少年がいることを、まるで気づかないようです。島田君も木下君も、この気味の悪い紳士のそばから、一刻もはやく逃げだしたいと思いました。
しかし、からだが金縛りにあったように固まってしまい、身動きひとつできません。
もし少しでも動いたら、あのろう人形がいきなりこちらへ飛びかかってくるのではないか――それが恐ろしくてたまらなかったのです。
その時間はものすごく長く感じられましたが、本当は五分も経っていませんでした。
やがて、ろう人形の紳士はショーウィンドーの前から離れ、歩きだしました。
たくさんの節がある竹のステッキをつきながら、まるでゼンマイ仕掛けの人形が歩くような変な格好で、コットリ、コットリと歩いていくのです。
二人の少年は顔を見合わせました。
このまま反対のほうへ逃げだそうか、それとも、あの不思議な紳士のあとをつけて、その正体を見破ってやろうか。
ふたりは一言もしゃべらず、目でそういう相談をしました。
そして、やっぱり、あとをつけてみようということになったのです。
気味の悪さよりも、本当のことが知りたいという気持ちの方が勝ったのです。
ふたりは背中をかがめ、お店の軒先(のきさき)伝いに隠れながら、不思議な紳士のあとをつけ始めました。

第三の尾行者

夕方の町には、不思議なことに人の通りが全くありません。
シーンと静まりかえっています。
それに、町全体にもやがかかったようになっていて、油断していると、ろう人形の怪紳士はそのもやの中へスーッと消えていってしまいそうでした。
島田君はふと、ぼくはいま夢を見ているんじゃないだろうかと思ったほどです。
怪紳士はいくつもの曲がり角を曲がりました。
そのたびに、少年たちはますます見覚えのない町へと入り込んでいくのです。
いつの間にか大きなお屋敷が並ぶ街になり、両側に長いコンクリートの塀が続いていました。
少年たちは身を隠せるものが何もありません。
塀にピタリと体をくっつけ、カニのように横歩きするほかないのです。
怪紳士は三十メートルほど向こうのもやの中を、相変わらずの調子でコットリ、コットリと歩いています。
歩くたびに竹のステッキが、キュッ、キュッと音を立ててしなるのです。
いまにもこちらを振り返るのではないか。
そして、あの空洞の目で私たちを見つけて、追いかけてくるのではないかと、ふたりはもうビクビクものでしたが、幸いなことに怪紳士は一度も後ろを振り返らず、まるで首を回すことのできない機械人形のように、まっすぐ歩いていきます。
コンクリートの塀が途切れると、今度は生け垣ばかりの町になりました。

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