初級翻訳・透明怪人 第26話

江戸川 乱歩

ときどきそのうちの一人が椅子から立ち上がり、塀の外の道路まで出て様子を見ることもあるのです。
裏庭と道路の境目には低いコンクリート塀があり、そこに出入り口のくぐり戸がついています。
塀の外には街路灯が立っていて、その明かりが庭の中までかすかに照らし出していました。

いま、一人の刑事態勢を立て直そうと椅子から立ち上がり、庭を横切ってくぐり戸を開け、外の道路に一歩踏み出したのですが――外に出たかと思うと、ギョッとしたようにその場に立ちすくんでしまいました。
寂しい裏町のことだから、こんな夜更けに通る人など誰もいないと思い込んでいたのに、見るとすぐ向こうの街路灯の柱のそばに、妙なものが立っているではありませんか。
それはまっ赤な着物を着た、大きな人形のようなものでした。
刑事とその人形のようなものは、二十メートルほど離れて、しばらくにらみ合いを続けていました。
じっと見つめていると、それは人形ではなく、生きた人間、赤と白のだんだら模様の道化服を着た人間であることがわかってきました。
「アッ、あいつだ! 今日の夕方、公衆電話の中で消えうせたという、あの道化師にちがいない!」
刑事はとっさにそれをさとると、いきなり道化師に向かって飛びかかっていきましたが、道化師のほうもそのときはもう、目にも留まらぬ速さで駆け出していました。
とてつもなく足の早いやつです。
刑事は走りながら笛を取り出し、ピリピリ……と強く吹き鳴らしました。
裏庭にいたもう一人の刑事はその音を聞いて飛び出してきたものの、先を走る刑事との間にはすでに五十メートルもの開きがあります。
これではとても追いつきそうにありません。さきの刑事は、またしても犯人を逃がしてしまうのかと、悔しくてたまりません。
歯をくいしばり、命がけのスピードで追いかけました。
しかし、相手はそれよりもさらに早く走るのです。
そうして、曲がり角を三つほど通りすぎたときのことです。
走っていた道化師が、何を思ったのか、ピタッとその場に立ち止まりました。
見てみると、向こうの暗闇の中に、怪物の目玉のように懐中電灯が光っています。
それはふたりの制服巡査でした。
この付近の警戒にあたっていた巡査が、さきほどの警笛の音を聞きつけて、道化師の行く手をふさいでくれたのです。
「しめたッ!」刑事は心の中で叫びながら、いきなり道化師に飛びかかると、柔道の技で見事にパッと地面に投げ倒し、その上から馬乗りになって押さえつけました。
「きさま、透明怪人だな。今度こそ、もう逃がさないぞ!」
そして、道化師のロウの仮面をはがそうと顔に手をかけたのですが、それはお面ではなく、本当の人間の顔であることがわかりました。
「おや、それじゃあきさま、透明人間じゃなかったのか!」
「そんなもんじゃありません。チンドン屋の紅丸(べにまる)という者です。人違いです! わしゃ何も悪いことはしません。放してください……!」
組み敷かれた道化師は、泣き声をあげてわめき散らしました。
「それじゃあ、この夜ふけにどうしてあんなところに立っていたんだ?」
「頼まれたんです。」
「頼まれた? だれに、何を頼まれたんだ?」
「だれだかわかりません。三時間ほどまえ、道で行き合った紳士です。五千円札をくれました。そして、『さっきの家の塀の外に立っていろ。そこへおまわりさんが来るが、塀の中から人が出てきたら、一目散に逃げ出せ』と言うんです。それだけで五千円くれるならうまい話だから、引き受けたんです。」
懐中電灯でよく見ると、このチンドン屋はいかにも間抜けな顔をしていました。
五千円に目がくらんで、こんなつまらない役目を引き受けたというのも、まんざら嘘ではなさそうです。
しかし、もしこの男の言うことが本当だとしたら、その紳士はなんのためにそんなことを頼んだのでしょうか。
刑事は首をかしげました。
「ともかく、中村係長のところへひっぱっていくことにしようじゃないか。これには何かわけがありそうだぜ。」
あとから追いついてきたもうひとりの刑事が、道化師に馬乗りになっている刑事の耳元でささやきました。
そこで先の刑事はようやく立ち上がり、チンドン屋を起こしてやり、その手首を固く握ったまま、グングンともとの道をひきかえしました。
もうひとりの刑事とふたりの警官もその後につづきます。
三百メートルほどもどり、探偵事務所の裏口に近づくと、そこには黒川記者が待ち構えていました。
「どうしたんだい? なんだか騒がしいので目を覚まして、ここまで出てきたんだが。」
「ああ、黒川さんですか。こいつがとんでもない不審者なんです。だれかに頼まれたと言って、あそこに立っていたんですよ。夕方の道化師の話を聞いていたものだから、てっきり透明怪人だと思って追いかけたんです。こいつ、バカに足の早い野郎で、大汗をかきましたよ。」
刑事はここまでの出来事をすっかり話してから、
「やっぱり一度、中村係長さんに調べていただきたいと思って、引っぺっ捕えてきたのです。」
「うん、中村さんはよほど疲れていたとみえてグッスリ寝込んでいる。だから起こさずにぼくひとりで出てきたんだが……それじゃ、中村さんを起こしてここへ来てもらうことにしよう。」
黒川記者はそう言って、裏庭の奥へと姿を消しました。
ところが、黒川記者が家の中に入ってみると、そこにはじつに驚くべき、とんでもない事件が起こっていたのです。
魔法使いの怪老人は、またしても恐ろしい魔法を使ったのでした。

黒い一寸法師

話はかわって、こちらは明智夫人の文代さんです。
みんなと別れて自分の寝室に入ったものの、今夜こそ透明怪人が自分を連れ出しにくるのではないかと思うと、とても眠る気にはなれません。
昼間の服装のままベッドに横たわり、目が冴えきっていました。
右側の部屋には中村係長と黒川記者が、左側の部屋には小林少年がいるのですから、何かあやしいことがあったとしても声を上げればすぐに助けに来てくれるという安心感はありました。それでもやはり何となく心配で、どうしても眠りにつくことができないのです。
そのとき、どこかの裏手のほうで「ピリピリ……」と笛の音が響きました。
お巡りさんが持っている警笛のようでした。それは、刑事のひとりが道化服の男をみつけて、追いかけながら吹いた、あの呼びこだったのですが、文代さんはそれとは気づきません。
しかし、何かおこったのではないか、透明怪人が、しのびこもうとしているのではあるまいかと、にわかに胸さわぎがしてきます。
文代さんは、思わず、ベッドの上に、起きなおって、耳をすましたのです。
すると、呼びこの音があいずででもあったように、入り口のドアが、スーッと音もなくひらいたではありませんか。
ギョッとして、見つめると、ひらいたドアのそとに、中村係長と黒川記者が、ものものしいようすで、立っていました。
文代さんが、びっくりして、何か、言おうとしますと、ふたりとも、指を口の前にたてて、「だまって。」という、あいずをしたのです。
そして、一方の手で、しきりに手まねきをするのでした。
文代さんは、なんだか夢を見ているような気持ちでした。

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